フォークロア依存症
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昨今、欧米でも日本でも陰謀論や極右の台頭が進んでいる。これまでの自然科学や人文科学、社会科学の知見の集積を元に論理的に考えればそうはならないだろうというような珍説を無批判に受け入れ騒ぐ人たちがSNS時代の中可視化されている。
こうした人達は現代社会のエスタブリッシュメントは学があっても、私達と違って人間性がないなどと嘯く。また彼らは極度に文章が読めないのも特徴的。
たしかに石丸とか斎藤とか、座学はすごかったけど資質のない政治家はいる。高学歴でも裏金作るような輩もいる。
しかしながら小学校レベルの国語すら怪しい政治家は尚のこと困るのだ。法規や行政文書の類なんか絶対に読めないのだから、雰囲気で物事を語るしかできない。〇〇アノンの一つの基底をなす話は、定義に立ち返り論理的に具体と抽象を行き来しながら思考する力の欠如なのは間違いないだろう。
もっとも定義に立ち返って自分の頭で論理的に考えるという姿勢を教育サイドが伝えられていたのかは自省しないといけない。
義務教育レベルの国語力とはちょっとズレるがかつて某予備校で校正の仕事をしていた頃、東大入試の解答速報なんかにも関わった。
答えだけならみんなそれぞれに出せるのだが、ネット時代になってからはお茶の水の予備校が出した解答を確認してからネット掲載するみたいな横並びの姿勢があった。
でも実はこの横並びの姿勢、ネット以前にもあった話なのかもしれない。
1983年の東大入試の数学で、放物線を回転させ、y軸と45度の角度をなす原点を通る平面(例えばy=x)で切断した際の、放物面と平面で囲まれた部分の体積を求める問題があった。本問は、y軸に並行な切断面を取ると断面の形が変わり弓形が出てくるためどう工夫するかが問われる問題であった。
x軸やz軸に平行に切断すれば切断面は放物線と直線に囲まれた図形だから1/6公式を使って断面積を求めて、積分ができる。
私なら登場回数の多いx軸に平行に切断するだろう。
こういう問題は、求める図形の領域を不等式に表す→登場回数の多い文字があればそれで切る→どれも登場回数が多いなら字数の高い文字で切るというのが鉄則。
しかし業界で広く出回っているさまざまな問題集や参考書などではz軸と45度の角度をなす平面に平行な切断面を使って求積することが解説されている。ほとんどの解説で本来別解として取り扱うべき解法のみが他の解法の選択肢を押しのけメイン解法として取り上げられている。
これはどうしてだろうか?
3つの事情があると思われる。
1.曲線と直線が弓のような形をした断面になるときはその切断面は使わないという経験則を教えたかった。
2.誰かが最初にz軸と45度の角度をなす平面に平行な切断面を使って求積すると、何かに書いて、それがこの問題の定番解法だというように業界で広まってしまった。
3.空間図形における正射影の考え方を教えたかった
恐らく1.のような教育的な意図が重要だと、数学教育の関係者たちが思い込んで、2のようになったと考えるのが自然だろうか。3.は後付けのような気がする。こういうことを教えるならもっと適切な問題は他にもあるのだから。
言うなれば数学教育業界にもフォークロアのように業界人が共有するものがある。弓型はダメというフォークロアだけが一人歩きした。定義に立ち返る、自分の頭で考えるというのはそこにはない。
本来弓形がダメとは円弧と直線で囲まれた図形の面積を求めるとき角度がパラメータ化してしまい処理が複雑になるという話。
だからぼくもかつては数学教育業界の末席にいたがフォークロアからどれだけ自由であったかはわからない。そしてどれだけの高校生から自分の頭で定義に立ち返って論理的に考える姿勢を奪ってきたか。そしてこうした高校生が大人になり変に目覚めると、定義もなく論理もない無秩序・無定型な方向へ走ってしまう。
そう考えるとSNSによってごくわずかな動きでも可視化されたというだけで、実は昔からこんな問題はあったのかもしれない。昔だってごく一部の学生が信州の山奥で暴走して、仲間を殺し、人質を取って立てこもったのだ。
そう考えると原典や定義に立ち返り、定義に基づいて論理的に敷衍する営為、発達した資本主義においては資本家であろうと労働者であろうと必須なはずだが、実はとても難しい営為なのではないか。
たとえば現代の企業はそのほとんどが就業規則を持ち、労働者も使用者もそこに縛られている。しかしこの「原典」を敷衍して自分自身の立ち位置を考えるなんてことは極めて稀だろう。
しかし人は外界を認識し、解釈し、行動する生き物だ。自然科学や人文科学、社会科学が今や外界認識の枠組みである。
しかしながら個々人の持つ枠組には要所要所にそれぞれで穴があるし、自分の論理にだって他人のそれと照らし合わせなければ自信が持てない。
だからこそ過去に上手くいった外界認識の経験知たるフォークロアの力を借りることになる。いつしかフォークロアのパッチワークで大抵のものが解決するところまで集積は進んだ。自ら努力して精緻な枠組を構築せずともなんとなく「自由」な市民として生きられるつもりになってしまった。
ここに現代的なフォークロア依存症が形をなすことになる。そしてこれがSNSの勃興とともに近代市民社会の土台を突き崩しているのではないか。
今夜は眠れないので、こんな雑文を書いてみたがまとまってなくて本当にすいません。
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