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「なぜレースの写真を撮るのか」vol.3
vol.2はこちら。
果たしてこの記事を何人が見るだろうか。
見て何を思うだろうか。
単に写真撮ってる1人の人間の戯言だと思ってくれればいい。
異論反論はあるだろうが、それについては受け付け…なくてもいいか。汗
変な事言ってる奴がいるな、と笑えばいい。
端くれカメラマンなんだし。
それにしても写真家、Photographer、カメラマン・・・
写真を撮っている人間の呼称として色々な呼び方があるが、どれもしっくりこない。
まあ、別に呼び方なんてどうでもいい。
好きなように呼んだり名乗ったりすればいいと思う。
海外では色々分けるんでしょうね。
知らない世界。
ま、なんでもいいんだけど。
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vol.2では自分の作品を載せた。
色々書いたが、たかが写真。
難しく考える必要はない。
モータースポーツの写真も、どんなジャンルの写真も。
気楽に、好きなように撮ればいい。
ただシャッターを押せば写る。
と思う。
でも好きなように、とはいっても、されど写真。
決して独りよがりになってはいけないのだ、とも思う。
クルマのカッコよさだったり、レースに関わる刹那の部分。喜怒哀楽。
様々な表現方法はあるけど、でも最終的には結局、”人間”の部分なのだろうと感じる。
クルマ・バイクをコントロールしているのは人間(作り手も)。
生と死の表裏一体の極限状態で車やバイクをコントロールする人間。
その裏側に存在する何百人ものスタッフ。
それを撮るカメラのシャッターを押す人間。
人間対人間、その眼差しの対峙である。
それを忘れてはならない。
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「機械の後ろには必ず患者がいる」
自分がMEとして、心にいつも留めている事。人工呼吸器や医療機器の勉強会をするとき、初めに言う言葉だ。当たり前で簡単な事なのだが、なかなか出来ない。
写真を撮る時も同じだと思う。
人間の存在と、その感情、情熱、悲哀、その他全てと対峙をする。
クルマや機械はその先にあるもの。
カッコよさ、美しさを醸し出すものは、人間の存在があるからだ。
レース中でも、そのバトルの奥にはドライバー・ライダーの”覚悟”があり、チームの人たちの喜怒哀楽が存在する。
決して、クルマだけを見てはいけない、と思う。
モノでもヒトでも被写体と会話すること。
背景にあるヒトの存在を知ること。
最近になってようやく、冷静にこの事を考えられるようになってきた。
卒制の時にもう少しこの冷静さがあれば。
でも結局、結果は変わらなかったかもしれない。
うん、たぶんそうだ。
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背景にあるヒトの存在が浮き上がれば浮き上がるほど、光と影が余計に見えてくる。
モータースポーツの光と陰、「死」。
それはある意味、「生」にネガティブな感情を持ち、同時に「死」にポジティブな感情を抱く。
それは、モータースポーツの写真には必要ないのだろうか?
いやいや、そんな。
「アンビバレントな視点を持つこと。」
写真を撮る時、いつも頭の中であの時の講評がフラッシュバックする。
自分が撮影した写真は、果たしてどうだろうか。
先生の言葉が突き刺さる。
そして、今なら、少し分かる。
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撮影した写真が何物かに変わるとき、それは第三者の目に晒される時。感情、意味付けで目の前にある一瞬を捉えた写真の意味は、いくらでも変わっていく。撮影した写真が、あとでどんな意味付けをされるか分からない。
写真は暴力的行為だ。
我々は暴力的装置を持っている。
そして表に出す時も、この装置で撮影したものが、どう他人に受け止められるのか、常に考えなければならない。
”写真が自分が思っているものと違うカタチになって、勝手に旅をしている事がある。全然違うカタチで写真が自分から離れて、一人旅をしている。時間を経て写真の存在が上がっていくにつれて、その写真が持つ意味・メッセージ性は変容していっている。”
外に出た写真は自分の知らない所で使われ、知らない人に見られ、この写真に込められた意味はこういう事なのだろう、と撮影者と全く違う考えで語られていたりすることもある。そんな考えて撮っていない、そんな意味だったか?と後々頭にハテナマークをつけることがある。
それは、大学入試の現代文において、傍線部が引かれた箇所の「作者はこの時、何を考えていたか」云々の問いを作者が見た時、それに対する答えが「別に特に何かを考えて書いたわけではない」という、入試問題では0点をつけられる解答のようなもので、それと似ていると思う。
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万が一、撮影した写真が社会的思想にでも繋がると、それ自体どうだろう。宣伝や広告塔の一部分に使われるならば、そういった事も考えられるはずだ。または、歴史的にみて明らかに人権侵害やらなんやら人道的に問題があるような内容が透けて見える写真になって使われたとしたら。そこに撮った人間の思想は全く関係無くなり、シャッターを切った時と発表した時に感じえていた本来の伝えたい意味合いと大きく剥離する。それは戦時下、プロパガンダにおいて写真が利用された事と似ている。というか、ある意味では、どの写真もプロパガンダであろう。不完全な形であるにしても。
最近でもあったでしょう。コ◯コーラの。コロンブスの。そう、あれですよ。詳しい事はニュース記事へ。
あれが、写真でも起こりうる可能性がある。もっともこれは、クライアント側、ディレクターなりが歴史観をしっかり理解して確認していないのがあるとは思うけど。グループ側は与えられたことをしっかりと仕事したに過ぎない。
撮影の対価として、お金を貰い、権利も全て譲渡し、写真を撮った人間の名前はどこにも載らないようなカタチだったとしても。撮影者は常に考えておかなければならない。
自分はそう思うけど。
表現の自由って問題が出てくるけど。
これは非常に難しいね。
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SNSなんかで上がっている写真の中に、キレイだ、カッコいい写真だ、エモいでしょ、これってすごいでしょ、などという ”浅はかな” 考えが透けて見えることも多いような気がする。それは撮影して発表した人間から相手(鑑賞者)への強制的な思想の押し付けでしかならないのでは。
それはまさしく、感動ポルノに近いと思う。
ある意味、流し撮りなどでも、多くはそれこそ撮影者の技術の自慢でしかなく、ただ単に「カッコいいですね」「エモいですね」「良く出来るね」と、それで終わってしまうのではなかろうか。
そんな写真を誰が見たいというのか。
このモヤモヤ感、なかなか伝わらない。
このモヤモヤが記事になっていた。
氷上の哲学者、町田樹さんの記事。
もう一つ、当時から「頑張ります」と並んで町田さんが首をかしげてきたアスリートの言葉があるのだという。違和感を通り越して、嫌悪感さえあるという言葉。それが「観ている人に感動を与えたい」である。 「私が現役だった十数年前くらいから『感動を与えられるように頑張ります』ということを語るアスリート、もしくはスポーツ界関係者や政治家が増えたように感じています。東京五輪の招致活動も関係していたかもしれません」
〜中略〜
「アスリートがいなければスポーツ文化は成り立ちません。これは確かですが、その一方でアスリートのほかにも、競技団体で働く人、用具を製造する人、施設整備に関わる人、さらに観戦してくれる人たちがいて、初めて競技が振興できているわけですから、そういう人たちに対して『与える』という上から目線での発言には違和感を抱いていました」
「そして本来、感動するか否かは受け手に委ねられているものです。Aさんは感動しても、Bさんは感動しないことだって普通にあり得ます。それはフィギュアでも同じです。『感動を与える』という表現は、あたかもアスリートがベストなパフォーマンスを発揮すれば、誰もが喜ぶと一方的に『感動』を押しつけている印象を受けます。スポーツは無批判に『良いもの』とされ、皆が感動するだろうと思い込むことの傲慢さみたいなものを、現役時代から感じていました」
「感動」は送り手の創造力と受け手の感受性があって初めて生まれるもの。それなのにスポーツの力という錦の御旗の下、「感動」が氾濫している──。フィギュアという勝負論の枠に収まらない、多様な評価軸や価値観も共存するアーティスティックスポーツの担い手ならではの視座といえるかもしれない。
やっぱり深く深く考えること。
自分が何を伝えたいかを忘れないこと、この写真を見た人が、何を感じてくれればいいのか、どんな写真を撮りたいのか、様々な要素が絡み合って一つの写真になると、それは人の心を打つ場合がある(ある人の言葉の改変受け売り)。
場合がある、という事である。ここで感動を与えたい、みたいなのが入った時、その写真は違和感に生まれ変わり、その写真で何をしたい?という疑問が湧いてくる。
押し付けがましい感情も無く、ただ自分が良いと思う事をストレートに発信し、それを視た人間が何か写真の奥底から湧いて出るエネルギーみたいなものを感じ取ってくれればいいのだろうか。”photography”なのだから、抽象的でもなんでも、自分はこう見えた、こう表現したいと突っ走れば。
そんな力強い写真に、我々は良くも悪くも心を動かされるのかもしれない。
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じゃあ、流し撮りでカッコよく撮ってもいいではないか。
別にエモくても、なんでも、そう表現したいのだし。
難しいねえ写真って。
本来、写真には正解は無い。その中でも良いか悪いかの基準・ルールがあって、それは観る人であるクライアントなり個人なり、主観や趣味趣向、批判的な思想など、それぞれの軸で変わる。それを我々で判断することは、そこに我々が考えた意味づけが生まれ、暴力的行為が更に激しく鑑賞者の心に突き刺さるということだ。それが心地良い時もあれば、悪い結果を生み出すことさえある。
難しいねえ写真って。
私写真というのもあるし。それと近いのか?写真史をもっと勉強すれば、この辺の考え方もしっかりしてくるんじゃないかとも思うんだけど。勉強が足りないです。写真史はいらねえってカメラマンの人見たけど、何考えてんだと思う。でもやっぱりその人色々炎上してたし。
難しいねえ写真って。
写真が他人の目にどう捉えられ、メッセージ性を持たせるか考える、自分にはこう見えた、こう表現したい、社会に対してこういう問いを持っている、でも思想や考えの押し付け、感動ポルノになってはいけない。
そう、矛盾している。
その線引きはものすごく難しい。
でも、その矛盾も芸術の一部じゃない?
そして、町田樹さんが仰る意味は、なんとなく分かるのだ。
このモヤモヤ感、なかなか伝わらない。
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![](https://assets.st-note.com/img/1713971304733-RcWccgjcRW.jpg?width=1200)
文学を長いこと研究してきた。
ありとあらゆることは十九世紀までに全て書かれてしまった。
十九世紀で全て完成したのだ。
そして二十世紀には考え得るアンチが出尽くした。
~中略~
二十一世紀に生きるあなたは何を作るのか。
虚無の卵なのだ。
何か生まれると思って温めているその卵からは虚無が出てくる。
中身が虚無の卵はもはや卵ではなく石ころかもしれない。
石ころはどんなに温めても孵ることはない。
孵ったとしても虚無しか生まない。
~中略~
もう一度言おう。
虚無の卵を温め続けられるか。
ぎゃーてーぎゃーてー、虚無の卵から何か生まれたら楽しいだろうなぁ。
2023.1 p.82-83
竹下修平「虚無の卵」
世の中の色々な場所で、モータースポーツの写真を視ることが出来る。新聞やオートスポーツ紙をはじめとした雑誌であったり、JRPA写真展、東京都写真美術館でも報道写真展が開催されている。それを視て思うのは、様々なモータースポーツのイメージは、報道の世界や趣味で撮影している自分たちのようなハイアマチュア層により、もうすでに撮り尽くされているのではないかということだ。
結局、表現したいと思っている写真は、ある意味これらの模倣品であって、どこかで見た感覚、既視感が半端なくある。純粋な感覚・感情から来る写真は、もう無いのではないか?
撮り尽くされた世界の中で、今生きる我々は何を撮り、何を表現し、何を伝えなければならないのか。我々に出来ることは・・・。
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「モータースポーツの魅力を伝える」という文言はよく使われる。
多くはレーシングカー、バイクに焦点を当てたものであり、単にレースの魅力を~などというのは簡単だ。
何を伝えたいのか?モータースポーツの何を?
その時に思う。別にキレイでカッコいい写真じゃなくてもいいではないか。ただひたすら、その場の記録をすればいい。サーキットのあらゆるものをそのまま撮ればいい。マーシャル、フェンス越しから見た富士山、入場ゲート、バス乗り場、コースサイドのキャンプテントでやるホタテ焼き、屋台の焼きそば、客席のビール。サーキットには人間がいて、車があり、バイクがあり、それは走っている。
これらが全てが目の前に存在するのは当たり前のことだ。当たり前のことを、当たり前のように撮る。その方がストレートではないか?流し撮りなんていらないのではないか。
ある意味、Xやインスタで投稿される何気ないサーキットの日常の写真の方が、レースの魅力、サーキットの雰囲気を感じられるのではないか?そのような写真でもあってもいいのではないか?それこそ、本当のモータースポーツのレースの写真になりうるのではないのか?
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本当に価値のある写真。
その定義は色々あるけれど。
例えば表に出た写真以外に存在する、膨大な量の他人の日の目に触れない数々の写真群。スローシャッターで撮影しても、その全てが成功しているとはいかない。遅くなるほど歩留まりは悪く、ほとんどが「失敗写真」に数えられるだろう。1レースに何人ものカメラマンが何分の1秒というスピードで一瞬をとらえているが、全てを集めるとレースの時間よりもはるかに多くの、膨大な量の時間が埋め込まれたイメージが切り取られている。
それら表に出ない写真たちは本当に価値のない写真なのだろうか?
なぜ、これらの写真はダメで発表に適さないのだろう?
価値が無いとは一体何なのか?
良い写真、カッコいい写真、価値がある・無しの基準はどこに存在しているのだろう?
もちろん、求められる写真がある。
その意図に沿えばいい。
それこそ、鑑賞者に委ねればいいではないか。
ピンぼけでもぶれていても、構わず外に出せばいい。
撮影した写真は、全てにおいて価値があるものだ。
見せ方は考えたうえで、だ。
それが前提としてある。
何を、どう、見せたいのか、どうして自分はこのスポーツの、何を表現したいのか?
外に出ないものにも考えを巡らし、なぜこれらは外に出るものではなかったのか、考える事が必要だ。
外部に出て表現されたものが重要ではない、それ以外の、表現として出なかった部分が1番大事だと思う。
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最近は、レース後にSNSで色々検索すると、レースアテンダントの写真ばかりが目につく。別に否定しているわけではない。ただ、”普通の” 写真が埋もれている気がする。サーキットの、”本当の” レースの写真が埋もれている気がしてならない。別に芸術的に撮ることも否定していない。それ自体がモータースポーツのあらゆる側面を伝える一面を持っている。でも、そこに疑問を持ってもいいはずだ。そこに疑問を持つことは許されない事なのだろうか。みんなクルマの写真、みんな流し撮り、みんなレースクイーン…果たしてそれでいいのか、と。
そこから外れてもいいはずだ。
それを許すことが出来ない人間も、もちろんいるだろうが・・・
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「なんでもない写真、何気ない写真」
もしかしたら、これから撮るべきレースの写真は、こうした写真なのかもしれない。
ほんとうに伝えたい事、魅力的なもの、全てが網羅されるイメージは、技術的に優れたものではなく、案外身近なところにヒントが隠されてると思っている。
たぶん。
以上、これらのことは、色々な矛盾を含んでいる。
「なぜレースの写真を撮るのか」からすごい離れている。
異論反論、罵声暴言、誹謗中傷(絶対ダメ)は飛んでくるだろう。
それも踏まえたうえで、モータースポーツ写真は分からないし、なぜ撮っているのかも、分からなくなってくる。
vol.1でへトロトピア、記録という二つのと書いたが、自分にとってはやはり記録しているという意味合いが強いのだろうな。
たぶん。
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また長くなった。
次で終わるはずだ。
たぶん。