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僕の選択、君の問い

 少しクーラーに当たり過ぎたか、と感じた七月の午後。怠い身体をのそりと起こせば、当分光を浴びていないからか、カーテンの隙間から覗く閃光は僕の視覚を麻痺させるに容易い。

 先日のやりとりを経て、由紀との連絡は未だ取れずにいたし、最期に見た彼女の表情を見れば今からどう足掻いたとしても、我々が再び温かい会話、身体を交わせる事はない筈である。
今はもう冷たくなってしまった、由紀の心。冷えた身体を摩擦する様に、両手を動かす僕の姿は、今彼女から見てどのように見えるのだろうか。羨ましいか。恨めしいか。そんな感情さえも失ってしまったか。

「あなたの事、本当に愛しているの。だからこんな事すら、お願い出来るのよ......」

「つまり、僕とはこれ以上一緒にいられないという訳だね?」

「でも、分かるでしょう? 今の状況がどんな物か。もう終わりなのよ。続けられないの」

「もう終わりなのか。もう続かないのか」

「そうよ」

そんな由紀が発した最期の言葉は、自らの沈黙を生んだ。永遠なる沈黙。彼女はもう、僕の事を嫌がったり、こちらからの問い掛けについて否定をしなかった。変わりに、喜ぶ事や感情を露わにする事もなくなってしまったが。

 枕元に置いた由紀の携帯が、それはもう頻繁に鳴っていた。植木という奴から十二件、彼女の母からは八件の不在着信が。パスワードを知らない僕には、携帯のロックを解除する事すら出来ないし、時間の経過と共に積もり積もっていく通知をただ見流していくのみである。
テレビを点けようとは思わなかった。ラジオも聴く気にもなれなかった。ひとたび何かの音が立てば、それらは皆僕をひたすらに責めるだろう。お前が悪い。お前が悪い。お前が殺したのだ、と。でも、これは我々二人だけの世界を守る為には仕方のない事だったんだ。


「生きていて、楽しいって思った事ある?」

ふいにそう尋ねて来た彼女は、大学の庭先、雑に植えられた記念樹にもたれながら、自らの腹をさすっていた。

「たまに、そう思う時はあるよ」

「どんな時?」

「由紀と二人で話をしている時とか、かな」

少し冗談めかして言った僕をよそに、彼女の視線は虚に向けられていた。表情を一切変えずにどこかしらにある「生の意味」を探していた。
その頃から、彼女の中にある歯車というものは段々と歪な音を出して狂っていき、大学にもまともに顔を出さなくなっていった。
毎日のように連絡を取っていた事が信じられない程に、彼女は話すのはおろか、その感情を表に出す事すら困難になっていたようだった。

「何故、そんなに苦しんでいるの?」

「分からない。でも、私だって努力してるの。生きる意味を必死になって探しているもの」

「それは見つかりそう?」

彼女は首を横に振った。

「まぁ、難しい事を考えても仕方がないよ。僕が横について、なんとか君を笑わせてみせる」

またしても、彼女は首を横に振った。
そして、その両目に光は宿っていない様子。

 何故、僕は生を受けたのか。何故、必死になって生きるのか。死なない為に生きるのか。
確かに、その答えは出なかった。たかが八十年ほどしか生きられぬ人類に、その問いは難解過ぎた様にも思える。
彼女がそんな壁に行き着いて、身動きが取れない状況に陥った時、僕は目の前にてもがき苦しむ女の姿を、異形の物としか捉える事が出来なかった。少なくとも、同じ世界に生きる者とは思えななかった。

「まだ私の事好き?」

「......好きだよ。今までも、これからも」

「もう終わらせて欲しいの。あなたの手で。このままじゃ、私のまま生きる事も、死ぬ事も出来なくなってしまうの」

「君は、まだ僕の事が好きなの?」

「あなたの事、本当に愛しているの。だからこんな事すら、お願い出来るのよ......」

「つまり、僕とはこれ以上一緒にいられないという訳だね?」

「でも、分かるでしょう? 今の状況がどんな物か。もう終わりなのよ。続けられないの」

「もう終わりなのか。もう続かないのか」

「そうよ」

 
 僕は最期まで、由紀の考える世界の在り方については理解出来ないのだろう。例え、君の首を優しく触ろうが、その手に強く力を入れようが、そんな汚れた手によって生まれた彼女の世界は、僕を受け入れる事もないのだろう。
そうするうちに、部屋の外から数人の気配が漂ってきた。騒音にも感じるインターホンの音。客は、誰かを名乗らなかった。だが、その職業的な立ち姿からは、一定の断定と軽蔑をもって僕をやはり責めるに至った。
机に置かれた太いロープ。
見つめると、君が呼ぶ声がした。

「こっちに来て、初めて生きる意味が分かった気がするの。でも、もうそんな事は良いの。今度は、本当にあなたの事を愛せそうな気がするの。こっちに来て、私変わったの」

由紀は、僕を呼び続けていた。一瞬かもしれない、数分の事だったかもしれない。
でも、そんな君の呼び声は、他の音に掻き消されてしまったのだ。
玄関に向かって歩いた、その廊下が軋む音に。

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