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外大駅伝部まるっと図鑑21区

1年・三輪南菜子
「いずれは絶対強くなる」

父に褒められ陸上の道へ
東京出身の三輪南菜子さん。小学生の頃はピアノとプールに力を入れていました。3つ上で双子の姉と兄が陸上競技をしていたことや、父に自分の走りを褒めてもらえたことが嬉しく、中学生の頃から陸上競技を始めました。陸上部に入部してからは辛い練習が多かったけれども全中出場という目標がはっきりとあったので頑張れていたと言います。全中出場という目標は達成出来なかったものの、中学3年生の時に都道府県女子駅伝のメンバーに選ばれたり、東日本女子駅伝で3キロを下り区間ではありますが9分32秒で走るなど力のある選手へと成長していきました。

苦しみ続けた高校時代
中学卒業後は錦城学園高校へ。高校へ入ると一つ上に増渕祐香選手(名城大学)が居たことによって背中を追って、練習が出来ていたそうです。しかし次第にいずれは自分がこのチームのエースにならなければいけないという思い、周りからの期待が自らのプレッシャーとなり走れなくなりいっぱいいっぱいになってしまい、毎日毎日、陸上競技を辞めたいと思っていたそうです。それでも、辞めなかった理由は「仲間の存在でした。自分だけが辛いわけではない。みんな頑張っている。しんどい時に自分に負けたくない」そんな強い気持ちと、「いつも側で支えたくれた家族の存在。しんどくて練習に行きたくない時も母がいつも笑顔でいってらっしゃいを言ってくれてお弁当を用意してくれました。父も親身に寄り添ってくれました。」競技をする上で両親の力は必要不可欠なものだったようです。

コロナ禍での陸上生活
ラストイヤーとなった昨シーズン。「高校で引退する事を決めていたので何があってもやり切ろうと思い、モチベーションは下がりませんでした」ただ、インターハイ開催の中止が決まった時は落ち込んだそうです。「チームでの活動が出来なくなり、個人練習に切り替わったが自分で必要な練習を考えて自由に走れる事が楽しかったです。」その言葉通りに調子をピークに上げる事が出来ていました。「調子が良かっただけにインターハイがなくなり、このままで終われないと思い、大学で結果を残して終わろうと競技続行を決めました。」絶対に辞めると決めていた陸上でしたがコロナ禍で目標としていたレースが無くなったことが転機となり関西外大への進学を決意したと言います。怪我を抱えた状態での入寮となり、役に立てない自分、怪我を繰り返してしまう自分が情けなくなったそうです。そんな時に同期や先輩など様々な人が相談に乗ってくれたと言います。
怪我をした事によって、走れる事や陸上の楽しさを知り、気持ちにも大きく変化があったようです。辛い時もあるけれど、「いずれは絶対強くなる」この言葉を大切に、これからも競技に取り組んで行きたいと話してくれました。


取材後記 文責:3年・高瀬奈々海
今回、三輪南菜子さんを取材して、競技に対する考えや思いを知ることが出来てとても良い機会になりました。
しんどい時に一緒に頑張っている仲間がいること、自分を支えてくれる人がいることは本当に大切な事だと思います。普段からすごく努力家で自分に厳しい三輪さん。目標は日本インカレや大学駅伝に出場して結果を残すことです。三輪さんの今後の活躍に期待が高まります。

最後まで見て頂きありがとうございました。次は三輪南菜子さんにタスキを繋ぎます!


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