帝劇「エリザベート」死を愛するとは
2022/10/9 帝国劇場「エリザベート」を観劇してきました。
2020年も観劇予定で、またあのエリザベートの世界を体感できると待ち望んでいた中、公演中止となってしまい、あの頃はやり場のない気持ちでいっぱいでした。また帝劇エリザベートが観劇できたことへの感謝の気持ちと、エリザベートの作品に対する思いが募り、今回は私なりの感想を綴って行こう思います。
エリザベートが求めた自由って、愛する自由、しきたりに縛られない生活の自由、教育の自由、思想の自由、などかな?と思うんだけど(エリザベートは少なすぎると歌っていたけれど)、じゃあトートが求めた愛ってなんだろう。
是が非でもエリザベートを黄泉の世界に連れて行きたいのであれば、ルドルフが自殺してエリザベートが「死なせて」と言った時点で連れて行くと思うんだけど、それは拒否する。宝塚版では「死は逃げ場ではない」ってセリフがあるのだけど、心から死を望み、それを愛することが死であり愛なのかな?
また、ルドルフも「友達」としてエリザベートと同じように死を身近に感じていた役。少年時代からママ不在で、しきたりの中で厳しい躾を受けていて、強い英雄になりたかったのに成人してからは父親と対立、母エリザベートも取り合ってくれず、この世界で居所がなかったんだろうなと思う。
ゾフィーも優しさを堪えて、厳しくしていたんだと歌う。フランツが皇帝と呼ばれるように、また「エリザベートのためにしたことよ」とエリザベートを危惧していたんだんだと思う。
暗殺されたエリザベート、老衰を迎えたゾフィー、自殺したルドルフ、いずれも死が安らかに描かれているのは、トート含め、トートダンサーが静かに見つめ、滑らかに近づき、包み込むように黄泉の世界にお連れしているからだと思う。
それでもってアクロバティック且つダイナミックな動き&ダンスのお陰で、死とは生身の人間では到底逆らえない絶対的なものだと受け取れる。すぐ近くで見守っている、時が来たらやってくる、そういう存在に思える。
宝塚版では後半の場面が「最終答弁」として、トートvsフランツの裁判形式なので、ルキーニが裁判官に語った物語にも見えるけど、帝劇版だとその場面が、フランツが「トート指揮者のオペラ」という悪夢を見た訳だから、ルキーニが語った真実の物語というよりかは「妄言」に近い。処刑の縄から飛び出し、何百年のも間裁判官から同じ質問をされ、滅んだハプスブルク家を自分の中の証人として蘇らせ、語り終えた後、処刑され幕を閉じる。なんていうフィクションが史実に基づいて物語になっているんだと思う。
話はそれますが、史実に基づくとエリザベートの一家は、夏は涼しい地域に冬は暖かい地域に移動して住んでいたそう。だから「この暑さよ、少し休ませてちょうだい」なんですね。あの家族は寒暖に慣れていないんだと思います。
物語と史実を照らし合わせてみても面白いし、宝塚版との違いを探しても面白い、もちろん帝劇エリザベートを観劇する度に新しい発見がありそうな、そんな作品でした。