圧倒的な熱量で

語ることしかしたくないというか、むしろそれしかこれから出来ないんじゃないだろうか、という。

よく元気がなくなるんだけど、その原因の一つは熱量が足りてないからだ。熱量は字面通り、熱の話なので、この現実においてはエントロピーの第二法則ですぐに冷めてしまう。

熱量が大事だぞ!圧倒的に打ち込め!みたいな話は意識高いビジネス界隈で語られがちだけど、発熱し続けるにはそれ相応の燃料の投下が必要になる。

自分に燃料を投下し続けるのは案外難しい。モチベーションという言葉で表現できるが、モチベーションという言葉は熱量のある種の側面を覆い隠すようなニュアンスがあると思う。

モチベーションって言われると、自発的に無から湧き出てくるようなもので、それが出てこないお前の自己責任、みたいに追い詰められるニュアンス無いですか?

熱と燃料の関係に言い換えると、日々減っていきながら能動的に足さないと枯渇するもの、というイメージになると思う。モチベーションってカタカナ語は色んなものを隠す気がする。

じゃあ効率的な燃料をどう引っ張ってくるか、という話になるけど、恐らく金銭や社会的な評価だと限界がある。それらは外から降ってくる物であって、自分ではコントロールしきれないからだ。

なので、内的な動力に燃料を足してやる必要がある。無から湧き上がってくる何かではなく、自分で足すことが可能なもの。いやいや、どこから持ってくるの?となるが、外部から取り入れた物を内部で処理してから醸成して使うイメージだ。外と内のコラボレーションだ。

結論を言うと、それは愛と呼ばれるやつだ。何かに対する愛。誰かの作品でも良いし、特定のジャンルでも良いし、自分が取り組んでいるプロジェクトでも良いけど、それを愛することだ。愛して、それについて語ることだ。

原典を忘れてしまったけど、昔読んだ本の中に、愛だけは時間も空間も越えると書いてあった。本当にそう思う。入力は常に外部からだが、しかし枯れない温泉みたいに1発引き当てれば無限に湧き出る可能性がある。フィードバックもある。僕はあらゆるリスクを無視して、駅蕎麦とラーメンの食べ歩きを毎日したい。

スピリチュアルな話にならないように具体的に補足する。時代を越えて残っている作品は、その作者の愛の塊だ。日本に住んでいる僕らがラスコーの壁画のことを知っているのは、洞窟の壁に絵を描きたくて仕方なかったその人の偏執的な愛が、現代まで時間も空間も越えて届いている証拠である。はい、論破!あとラスコーの例えが古いね!何回コスるの!

というわけで、出来るだけ愛でもって何かを語ったり作ったりするようにする、というのが自分にとってはシリアスな生存戦略なのではないか、と思っているし、なんとか実践したい。

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もしなにかをディスっていたって、D.Oが言ったように、それは冗談だって、愛してるぜメーン。


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