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私的KAN論(仮) はじめに。

 先日クローゼットを整理していたらブルックスブラザーズの紺ブレが出てきた。1968~75年生まれの方々ならすぐにピンとくるだろう。そう、渋カジ全盛期の象徴的アイテムだ。あまりに久々に現物を見てしまったのでしばらくハンガーに吊るしたまま思わずじーっと見つめてしまった。気持ちとして甘酸っぱいというかなんというか、、、どっちかと言えば気恥ずかしさのほうが大きいかもしれない。いっそこのまま捨ててしまおうかとも思ったけど、まだそのままクローゼットで眠っている。体型的にも(洋服の)コンディション的にも二度と着ることもないんですけどね。

 そもそもいつ買ったのか思い出してみると1989年の春に大学の入学式用に買ったもので、当時めちゃくちゃ着倒したし愛着もあったしそのまま長いこと捨てずにしまっていたんですね。ちゃんとクリーニングすれば大丈夫かと思ったがもはや裏地がボロボロで古着屋でも買い取ってくれなさそうなレベル。だがなんとなく捨てられないまま、今日もクローゼットの隅にかかっている。借りっぱなしのレコードとか買ったはいいけど聴きそびれたまま未開封のCDとか。ああ、積読で読むなら読まねばの書籍ってのも会った。NETFLIXやアマプラでマイリスト入りさせときながらまだ見れてない映画やドラマなんてのもありますわな。要するにどんな思い出も誰かが更新してくれるわけじゃない。連絡の取れなくなったLINEアカウント、返信がくることもないGmail、プロモーションだらけで全く意味をなさないYahoo mail(毎日削除が面倒くさい)。そんな「切なさ」と表裏一体のまま、一見無駄なものに囲まれながらボクらは日々を過ごしている。

 そして今日は2023年の大晦日。(書いてる時点で)あと数時間で年末恒例の紅白歌合戦が始まるわけだが、2021年末の紅白歌合戦を覚えている人はどれだけいるだろうか。まだまだコロナ禍真っ只中の状況で、その年に行われた東京オリンピック同様無観客で行われたあの国民的番組の中で(あくまで個人的主観だけど)最も印象的なパフォーマンスはひとりの男性シンガーソングライターのものだった。

 岡山にある実家の自分の部屋からの中継という異例な形で出演したそのアーティストはいつものごとく「きらり」を歌い、プレッシャーに臆することなく最上級のパフォーマンスを演じ切っていた。オチとして、自分の部屋ではなく(あらかじめ収録された映像だった)実はそれ風のセミ・ドキュメンタリー。そして視聴者を軽く裏切り、いきなり渋谷のNHKホールに現れ「燃えよ」を歌う彼の姿は紛れもなく2020年代を代表するアーティストとしての覚悟やオーラを身に纏った、ジャパニーズ・ポップ史に刻まれるであろう名演の一つだったと思う。そのアーティストの名は藤井風。

 YouTubeで見ることができるのは、タイムレスな視点で選ばれる洋邦問わず数々のカヴァー・ソングで彼独自の審美眼で選ばれた数々の映像からは彼の音楽愛をたっぷり感じることができるし、何よりもユーモアセンスも感じるのがいい。世代を越えて支持を得ているのは紛れもなく藤井風そのものの魅力だろう。

 僕はといえば彼の楽曲やパフォーマンスを見るにつけ、ひとりのアーティストを思い浮かべていた。そう、ちょうどその約30年前、モーツアルトのコスプレでグランドピアノを弾きながら自身のヒット曲を熱唱したシンガーソングライター。その男の名前はKAN。

 そもそも邦楽においてピアノ・マンというイメージがあるアーティストは何人いるだろう。デビューの頃の原田真二はそうだったかもしれないが、オフコースの小田和正はもしかしたら近いかもしれない。ちなみにチューリップの財津和夫は楽曲によってギター&ヴォーカルというスタイルを選ぶ人だ。だとするとギルヴァート•オサリヴァンを敬愛する来生たかおってことになるんだろうなあと思ったけど80年代、特に自身のヒット曲「夢の途中」や「気分は逆光線」をテレビの歌番組で演ってる時はやはりギター &ヴォーカルだった。

 そうなるとやはり大江千里、KAN、槙原敬之のピアノマン御三家ということになるのだろうか。この3人に共通しているのは音楽的素養(教育面含めて)が実に高いこととポップ・ミュージックへのあくなき探究心だ。おそらくこの3人の活動がなければ90年代J-POPの狂騒はありえなかっただろう。特に(あえて強く言っておきたい)ここ最近語られ始めた90年代J-POP考察ビーイング系、小室哲哉を中心としたavex系、渋谷系で語られがちな風潮に対して明らかにボク自身としては「N.O」(by電気GROOVE)と叩きつけておきたいのだ。そもそも3人のディスコグラフィーをなぞればどれだけ大きな影響を与えてきたかすぐにわかるはずだ。それって戦国時代が織田信長が活躍しました→豊臣秀吉が天下統一しました→徳川家康が江戸幕府を開きましたとざっくり日本史まとめと一緒だよ!

 J-POPとは何なのか。ディバイスこそ変われど、フォーマットとしての文化は継続中だし、大人たちは「これからはデジタル」でと人材を求めている。そりゃそうだろう。デジタルマーケティングに基づき、多くの人々にどう届けていくのかと思慮を重ねていくことが当たり前の時代。かつてのようにタイアップの在り方すら変わっているし、メーカー、事務所それぞれメディアやクリエイターに対して縦横忖度ありの謎の会話で体裁整えて、、よくわかんないタイアップをつけて初回出荷枚数を積み上げて、、なんて話はもはや遠い昔の話だ。もちろんフレンドシップが重要なポイントがあるのは事実だし、別に悪いことではない。だけど時代は変わった。同時代性ってカテゴリーの中にはアーカイブも組み込まれているし、ライバルは同じ時代にいるだけではなく、過去の埋もれた楽曲やAIが生み出す近未来とより広く深く点在する世の中だ。

 それゆえに重要になっていくのはアナログ的感性でデジタルフォーマットにどう対峙するかということだと思っている。だってAIがいくら発達しようとも「格好悪い振られ方」や「どんなときも」、「まゆみ」や「言えずのI LOVE YOU」を超える名曲など生み出せない。まさに「愛は勝つだ」じゃないか。心配ないからね、である。

 KANの訃報を知ったのは漫画家/イラストレーターの江口寿史さんとLINEやりとりしてたときのことだった。ちょうど拙書「歌謡曲meetsシティ・ポップの時代」見本が上がってきて、「届いたよ」a「ありがとうございます」なんて呑気なやりとりをしていた時に共通の知り合いのミュージシャンから訃報が届いたそうで、ボク自身思いもよらないことだったので一瞬その事実をスルーしてしまい、「ありがとうございます」なんて間抜けな返信した直後、「え?」と慌ててしまった。つまりそれぐらい寝耳に水だったのだ。もちろん病気療養中なのは知っていたが、きっと復活するだろうと思っていたから。それぐらい思いもよらぬ知らせだった。きっと彼の音楽、遺された数々の名曲たちを長く愛し続けた多くのリスナーやミュージシャン、アーティストの方々も同じ気持ちだったろう。

 90年代に巻き起こったJ-POPブーム。バブル経済の狂騒も手伝って、“カラオケ”というコミュニュケーション・ツールのもと歌を歌うことで日常生活の中で誰もが経験する小さな物語を共有し、泣いて笑ったあの時代。部屋の片隅にあるミニコンポやCDラジカセ。競うように新譜をチェックし、8cmの短冊形C Dシングルを集めた。そんなブームの発火点になった何曲かのうちの1曲。それがKANの「愛は勝つ」だ。多くの人はこの曲で彼を知っただろうし、「愛は勝つ」が収録されたAL「野球選手が夢だった」を何度も繰り返して聴いた人は少なくないはずだ。僕自身、このアルバムのジャケットを初めて見たのは学生時代に住んでいたボロアパートの隣にあったオレンジポートという書店とCDレンタルの併設店。大学生だった当時、クーラーもない部屋に住んでいた僕は熱帯夜によく涼みに行っていた。深夜営業店だったので(確か12時)閉店ギリギリまでいると部屋に帰る頃には窓さえ開けっぱなしにしておけばギリギリ過ごすことのできる室温になっていた。時代はバブルど真ん中というのにまるで「おじゃまんが山田くん」の貧乏大学生3人組か「どくだみ荘」に出てきそうなシティ感覚とは程遠い生活環境だったが、そんな状況の中で僕は日々音楽を貪るように聴いていた。「野球選手が夢だった」と「ゆっくり風呂につかりたい」の2枚は確実にあの狭いボロアパートの一室で聞いていた。おそらく「イン・ザ・ネイム・オブ•ラブ」の頃だったろうか(ちゃんと調べます)、雑誌のアンケートか何かでKANが「最近起きてすぐコーラを飲むので冷蔵庫に缶コーラを常備してるとかなんとか」と解答してたのを読み、ボクは早速真似をした。その習慣はしばらく続けてたと思う。

 特に「野球選手が夢だった」は何度聴いたことだろう。当時流行りのファッションアイテムだった紺ブレを着こなし、多摩川の河川敷近くの野球場でぎこちなく佇む姿が妙に印象に残ったことはよく覚えている。まるでその姿は彼が敬愛してやまないビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」にも通じる切なさを今でも僕は感じている。「悲しい」ではなく「哀しい」。泣き笑いにも似た切なさをいつも僕はKANの曲から感じていた。それこそ77年に発表されたビリー・ジョエルの「ストレンジャー」の最初と最後に聴くことが出来る口笛のメロディは「野球選手が夢だった」の表1で読み取れる「哀しさ」と同意義だと思ってます。ボクにとって、KANはとことん「物悲しい」んですね。


夜はかつてない低温さ 
こっぱみじかい恋
星がぼくたちに嘘をついた 
(「こっぱみじかい恋」)


君はどうしているだろう
ぼくは今、多摩川で
白い大きな犬にほえられて
しかたなく逃げてきたところ
(「秋、多摩川にて」)


最近はぼくもずっと好きなひとがいる いいこだよ
いつも本気だよ 
でもふりむいてくれなくて
ぼくらしいだろう 
(「1989(A Ballade of Bobby &Olivia)」)

 現実はかくも厳しい。ドラマティックな恋愛に悩む曖昧なファンタジーのような日々のままじゃいられないし、どっちかと言えば手痛い思いもある。そんな誰もが経験するであろう、小さなリアリティを切々と歌い続けてきたシンガーソングライター。Bitter &Sweetな大人の寓話集。ボクにとってはそれがKANというシンガーソングライターの姿である。

 亡くなってから、ボクは自分のSNSで「1日いちKAN」と銘打ってどれだけ名曲を遺してきたのかをポストし続けた。たまたま新聞社からオファーが来て追悼文を寄稿することになった時もどれだけ彼が素晴らしいソングライターだったのかを伝えたい一心で原稿を書いた。締切はタイトだったけど、するするとごく自然に書けた。もちろん手直しはあったけれど、大筋は変わっていないしむしろ書きたいこと、伝えたいことを尊重してくれた共同通信社のM記者には感謝しかない。僕の初単行本になる「歌謡曲meetsシティ・ポップの時代」を出したことがきっかけとなり、わざわざ版元まで連絡してくれたからこそ実現した話である。

 正直この話が来た時悩んだ。なぜなら僕はあくまでリスナーとして長く聴いてきたし、ファンではあったけどご本人とも生前会ったことはない。だけどそんな視点だからこそ、KANが「愛は勝つ」だけじゃないシンガーソングライターだってことを書けるんじゃないかと思った。

 「愛は勝つ」。このメガヒットの影響は実に大きい。当時僕は単なる学生だったけど、J-POPメインチャートにほのかに漂い始めた「励まし」ソングこそ主流なり、という雰囲気に嫌気を感じたことはよく覚えている。あれはいったい何だったのだろうか。単純に「励まし」が必要なのは今の時代なのにとも思うけども。おそらくあの時代、まともに「J-POPとはこうである」と分析/解明できた人間はひとりもいなかったと思う。それは送り手、受け手ともにだ。僕はと言えば「KANの「野球選手が夢だった」ってアルバムいいよな」と思いながら他方ではロッキン・オンJAPANの思想にかぶれ、フリッパーズ•ギターやオリジナルラヴ、ピチカート•ファイヴといったアーティストをヘビロするプロフィールをなるべくアピールすることを心がけた。とはいえKANの隠れファンってわけでもなく同じく岡村靖幸フリークでJAPAN愛読者で映画「稲村ジェーン」に一緒にいったH君と「ねえねえ、KANの「イン・ザ・ネイム・オブ•ラヴ」って侮れないよね」「わかる。「ときどき雲と話をしよう」も実はいいよね」とこそこそ語り合ってはいたので。てゆうか、何でだろ。この隠れキリシタンならぬこっそり愛聴し続けてしまうこの感じ。なのでほんとに後悔している。若さゆえの過ちでしょうな。あの頃、日本の音楽シーンはどうかしてるってぐらい新しい波の連続だったもの。夜を徹して行われるドーナッツ・トーク、クラブイヴェント、ヒップホップと優しい夜。徹夜で出社して仕事終わらせてまた別の夜へと向かうなんて日常茶飯事だった90年代。もしくはカラオケバトル。当時の僕の上司は必ず「締め」で尾崎豊の「Freeze Moon」を歌い踊り破壊行為へと移行、いくつかのカラオケBOXを出禁になる男だった。なかなかそんなムードの中で僕は「こっぱみじかい恋」や「イン・ザ・ネイム・オブ・ラヴ」というカードを切り出せなかったのだ。ああ、ほんとに後悔している。

 この「私的KAN論(仮)」は何も決まってません。僕の頭の中には設計図はあるし、それに基づき書き進めていこうと思ってますがどこか出版社が決まっている前提で進めているものではありません。つまり僕は単なる熱意のみで書き続けようとしているだけ。だけど、やらなきゃなって妙な使命感だけはあるのです。この「はじめに」も何度か自分の中で推敲を重ねてます。とはいえデモテープです。僕の中の設計図としてはKANの楽曲を通じての90年代J-POPクロニクル的なものを目指しております。前にもSNSでポストした通り、イメージは新書です。できれば新書という形にして皆さんのお手元に届けたいし、そこを目標としつつ、原稿を書き進めていきたいと思います。月に1〜2回はnoteで公開デモテープ試聴なノリで進捗を発表していければなんて考えてます。


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