感覚派オタクVS思考派オタク……?

オタクが作品を楽しみ、味わうとき、そこにはいくつかの流派がある、らしい。

一方、およそ作品というもの(アニメでも漫画でもゲームでもいい)は、頭を空っぽにして見たものを見たまま受け取るのがベストな楽しみ方であるし、唯一の楽しみ方だ、と言おうとする人たちがいる(もうちょっと穏当なパターンだと、ジャンルによって程度の差はあるが、作品というものは基本的に“素直に”楽しむべきだ、という主張になるだろう)。
例えばこんな感じ。


こういう人たちを“感覚派”とでも呼ぼう。

他方、およそ作品というものは、知識と論理によってこれを分析することが正しい味わい方のなかでは必須であるし、それがベストな味わい方だ、と言おうとする人たちがいる(穏当なパターンだと、味わい方によって別な味わいはあるが、いちおう知識があった方がより深く味わえる、という主張になるだろう)。
ちょっと例としてはいまいちだが、こんな感じ。

こういう人たちを“思考派”とでも呼ぼう。

2つの概念は、楽しむとか味わうとかいった「インプット」の次元だけでなく、感想を述べるとか批評を著すとかいった「アウトプット」の次元まで広げられていることもある。

一方、人間の胸の中、理屈でない領域に突如ほとばしる「ここすき」をとらえて、その「ここすき」をできるだけ短く鮮烈な言葉で伝えようとする人たちがいる。彼らのやり方は間主観に訴えるもので、定型文の繰り返しだったり、画像引用のみであったり、文字通り「ここすき」であったりする。そう言った反応はTwitterやnoteで観測することができる。
こういう反応を見せる人たちのことを、広義の“感覚派”としておこう。

他方、人間(自分や他人や論壇など)が作品を受け取ったとき、作品に見出そうとする「価値」をとらえて、その「価値」をできるだけ長く丁寧な言葉で表現しようとする人たちがいる。彼らのやり方は主観と客観を往復するもので、作品批評であったり、市場分析であったり、歴史解釈であったりする。そう言った反応ははてなブログやnoteで観測することができる。
こういう反応を見せる人たちのことを、広義の“思考派”としておこう。


感覚派のオタクと思考派のオタクとはどうしても対決しなければならない宿命にあるのだとは、私には思えない。というか、さもこの世には2種類のオタクがいるかのようなことを述べるのも、不正確な物言いであると私は思う。
オタクは、感覚的に楽しむこともできるし、思考的に味わうこともできるのだ。(インプットに関してはまあともかくとして)少なくともアウトプットに関しては、オタクは感覚的な物言いと思考的な物言いとを両立させることを許されている。器用なオタクは、Twitterでは定型文をあやつったり仲間のツイートに「いいね!」をしたりして、はてなブログでは作品の構造読解をものしたり人のブログのコメント欄で作品解釈の議論を行ったりする、なんてことができる。器用なオタクは環境によってやり方を変え、かつどのやり方も欺瞞だとは思わない。
ある人があるやり方でアウトプットをしているからといって、その人がそのやり方しかできないとかそのやり方からその人の本質を判断できるなどと結論付けるのは早計だ。人間の心と頭は、その人自身の言葉からも自由なものだ。確かに、言葉には使う人の考え方・感じ方を規定してしまう面が(驚くほど)あるが、それでも思想と言葉とがイコールであるという話にはならない。一つの思想は同時に複数のやり方で表現されうる。Twitter的なやり方やブログ的なやり方にとくべつ辟易してしまうのは、どちらかのやり方しかできない不器用なオタクだけなのだ。感覚派と思考派が対決しなければいけない理由など本当は一つもありはしない、と私は思っている。

しかしながら、感覚派/思考派の一部のオタクは、どうしても思考派/感覚派と戦いたくてしょうがないらしい。例えば、「作品への愛を語るのに難しい言葉ばかり使っているような奴らは、実のところ、作品を心から愛するという能力に欠けているのだ」とか。例えば、「作品について話すとき、自分の言葉でしゃべれないような奴らは、結局、作品を理解する・理解しようとする知性に欠けているのだ」とか(注1)。
そこに、互いに戦いたくて仕方ない2つの陣営があるのならば(いや、本当は実在しないのかもしれないが)、私はここから、両者の主張を並置し、眺め比べてみよう。感覚派と思考派のいずれにも与することなく、他人事のように両者の主張をじろじろと見てみよう。なんでもかんでも相対化するのは若者の特権だ。20代の、どちらかといえば浅学なオタクである私には、感覚派と思考派の戦いを好奇心のみで俯瞰しようとする、まさしく特権がある。


1. 感覚派を擁護するならば

作品の佳さはどこにある? 作品を鑑賞することを通して“有益”な情報を得られたとき、佳さを感じるものなのか? 作品は、同じ作品を観るほかのオタクとのコミュニケーションツールになるという意味でのみ佳いものなのか? それとも、円盤売り上げや動員人数が作品の佳さなのか?
いや、違う。ある作品を佳いと感じるのは、あなた自身だ。作品の良さというものは、作品それ自体とあなた自身を結ぶ直線の上のどこかにある。そこ以外のどこにもありはしない。
ならば、オタクは、作品を「佳い」と感じているのがほかならぬ自分であるという事実から逃げてはいけない。あなたがもし作品を愛する者でいたいのならば、作品を自分の名において愛するということから逃げてはいけない(フロム先生に教えてもらうまでもなく、愛するということは技術である)。

「佳さ」を感じる主体として自分を引き受けるということ、それは、ある作品を「佳い」と感じていることを自分と作品以外の誰のせいにもしないということである。だからオタクは、オタクであろうとする限り、ある作品を「佳い」と感じる理由を、さも冷静な論理であるかのように偽装してはならない。ほかならぬオタク自身がその作品を好きであるかどうかに触れず、ただ「論理的に考えて、この作品はジャンルの歴史に照らした重要性を持っている」とか「この作品が同時代の多くの人に支持されていることは売上からして否定しようがない」などと述べることで作品の評価に代えようとすることを厳に慎まなくてはならない。むしろ、己が作品に触れたとき最初に感じた気持ちのみをできる限りシンプルに率直に持ち続けるよう努力しなければならない。

だから、感覚派の一部は「ここすき」とか「尊い」とかいった言い方を大事にする方向に向かっていく。それは、定型化した「解像度の低い」言葉だが、いや、むしろ「解像度の低い」言葉であるがゆえに、第一印象を冷凍保存できる可能性を持っている。
また、感覚派の一部は既存の論理の枠組みにはまらない領域を探索して、乱雑な複雑さを持った文や文章を構築していく。読む人に違和感を引き起こすことを第一目的にしたような、詩的と言ってもいいような、そういう反応に困る文や文章を紡ぎ始める。こういう文や文章は、構文的に必ずしも単純なものではない。だがまるで論理的ではなくて、そのために論理を旨とするオタクからはときに苛烈な非難にさらされるのだが、はたして、こういった人々の目的は、既存の論理には当てはまらないが確かな共感を得るようなみずみずしいなにかである。いわば、「わかるひとにはすぐわかるし、わからないひとには絶対にわからない」文や文章を目指しているのであって、こういった文や文章が論理的ではないことは非難にはあたらない。

そうしたわけで、感覚派が追及するのは、あるいは「主観の重視」であり、あるいは「間主観の重視」である。そしてまさしくそのために、感覚派の一部は、“やたらと”複雑な構造を作品の中に見出したがるような“読解”に対して、強く敵意を表明することになる(そこに、知識に優れない人から知識に優れた人へのやっかみや、ペダンティズムへの行き過ぎた忌避感などがからんでくると、敵意のありさまはこんがらがっていく)。
感覚派の行き着くところのひとつとしての「主観の重視」の例として、例えばこんなエッセイがある。

このエッセイが拠っているところは、私が描き出そうとした「感覚派」そのものでは(たぶん)ないが、その大まかな雰囲気はかなり似通っている。


2. 思考派を擁護するならば

作品の価値はどこにある? 作品を観た人が“快楽”を感じられれば、そこにはいつでも価値があるのか? あなたが“快楽”を感じられさえすれば、その作品には価値があるのか? そして、あなたが見ていないすべての作品には価値はないのか?
いや、違う。ある作品の価値は、作品そのものにある。作品を見る人々がどんな好みを持っていようと、人々がどんな知識を持っていようといまいと、作品そのものの価値はある程度独立しており、不変である。作品の価値は、あなた1人の手元にあるものではないし、誰であれ1人の人間の手元にあるものではない。
ならば、オタクは、作品の価値に接近するためには自分という殻を捨てなくてはならない。あなたがもし作品を鑑賞したいと思うのならば、独りよがりな思い込みによって作品を評するという愚行からは距離を置かなければならない(オタクは常日頃言ってきたことだが、鑑賞するということは技術である)。

自分の殻を破って価値を見出していくということ、それは、自分一人の思い込みや執着をときには退けるということだ。作品を鑑賞するうえで、自分一人の思い込みや執着を退けるためには、作品に触れるときの感性や価値観のうち、どこまでが自分自身に独特な見方で、どこからが歴史や社会に敷衍しうる見方なのかを絶えず見つめ続けなければいけない。オタクは、もし一つの作品を気に入ったのなら、その作品を好きであるからこそ、「俺はこの作品が好き」という純粋な主観の中に溺れていってはいけない。人前で「俺はこの作品がただただ主観的に好きなんだ」などと騒ぎ立ててはいけない。主観のみを強調して話したところで、ただ「その作品を気にいっている人がいる」ということしか伝わらず、「その作品には価値がある」という“本当に伝えたいこと”は伝わらない(「個人的に価値を感じている人間が少なくとも一人はいる」というかたちで、作品の“客観的価値”を担保しようとする戦略もありうるだろうが、ここでは考慮しない)。だからオタクは、好きな作品を語るとき、作品をある程度は客観的に価値づけるのでなければいけない。

だから、思考派の一部は、自分以外の市井の多くの人が評価しているということを強調する方向に向かっていく。そのように作品の評価を述べることは、ともすれば大言壮語的な物言いになりかねない危険性を持ってはいる。しかし、自分を排してもなお作品の価値が残るためには、市井の人々の評価を利用するというのは有効な戦略である。
また、思考派の一部は、価値判断に拠らずに、冷静に事実判断の実を積み重ねて文章を構築しようとする。人が作品を観たときに感じる「何とも言えない気持ち良さ/気持ち悪さ」を、誰にでも理解可能な形で着地させるための、論理化のテクニックがそこでは希求される。「何とも言えない」気持ちを「誰にでも理解できる」気持ちにまで“翻訳”することは当然困難だ。そんな難事業が行き着く先は、「わかりやすい表現」を実現するために「何とも言えない」ものだったはずの大事な気持ちの何割かを捨象してしまうか、さもなくば、「正確な表現」を維持するために、難しい哲学・美学・論理学的概念を取り上げたアクロバティックで難解な批評になってしまう。そうした困難をあえて引き受けた作品批評は、「本質的に、作品の感想というものは表現しがたく、またみずみずしいものである」という事実を不当に隠ぺいしている、という一部の感覚派の非難にさらされることになる。しかし、思考派の立場にとって言うなら、作品の感想というものが本当に表現しがたいものであるかどうか、論理化によってみずみずしさを失ってしまうようなものであるかどうかは、まさしく、真剣に論理化を試みることによってのみ確かめられるものであって、「どうやら論理化は難しそう」であるという臆見は、論理化をあきらめる理由にはなりはしない。

そうしたわけで、思考派が追及するのは、あるいは「客観の重視」であり、あるいは「主観と客観の往復の重視」である。そうなると、思考派の一部は、自分自身の感覚に疑いを向けず、“なんでもかんでも”「一般的な感覚」扱いをして性急に共感を求めていくような“馴れ合い”に対して、乾いた嘲笑を向けることになる(注2)。
思考派の行き着くところのひとつとしての「客観の重視」の例として、例えばこんなコラムがある。

このコラムが目指すところの「客観の重視」は、私が言っているところの「思考派」とは幾分か異なる(素直さを重視しているところとか)が、その大まかな雰囲気はまあまあ似通っているだろう。

3. 自分の言葉で語れよ!!……?

果たして、思考派の人々は、感覚派(の一部)が表明する感想が、論理的に「薄い」ことを非難する。また、感覚派の人々は、思考派(の一部)が表明する批評から、主観的な愛情が見えてこないことを非難する。かくして、感覚派と思考派の戦争では、両陣営から同じ言葉が敵対者に対して投げかけられることになる。「その作品が好きなんだったら、その作品が好きだって、自分の言葉で語れよ!!」
両陣営はいずれも「自分の言葉で語る」ことを大事にしうるだろう。両陣営の理想は、実はさほど違ったものではない。にもかかわらず、お互いがお互いを、ある程度正当な理由から「てめえは自分の言葉で語ってない」と糾弾することが可能であるがゆえに、感覚派と思考派は同じ罪状で追及しあう。そして、「自分の言葉で語っていない」という罪を何度指摘しても敵対者はそれを正そうとしない。攻撃は空振り続け、両者の間には深い無理解の谷が横たわり続ける……(注3)。

かくして、感覚派と思考派を、同じ理想を持つ可能性がありながら偽りの対立の中に置かれた二つの立場として相対化することが完了した。「感覚派と思考派の戦争」という(おそらく実在しない)現象の中で、それぞれの主張は「どっちもどっち」程度の意見に落ち着いた。
ならば、私はここから、どの立場を選び取るのだろうか? アリストテレス的な“中庸”でも主張してみるのだろうか?
いや、違う。真ん中のちょうどいい塩梅を探すなんていうなめた真似を私はしない。感覚派と思考派の間には、やはりある程度は争いを避けられないところがある。なんでも中間がいいなんて、そんなこと言ってたまるか。
私という一人のオタクは、むしろ、感覚主義と思考主義に絶え間なく引き裂かれるものとして、あらゆる作品に触れ、作品の感想なり批評なりを表明しよう。主観と客観の相克に悩みつづけよう。間主観という強固さと西洋論理という強固さ、そのいずれもを取ろうと画策し、いずれも取れないまま苦しみつづけよう(ひょっとすると、こう言い換えてもいいかもしれない。「テクストの楽しみと歓びのテクストとの間に引き裂かれつづけよう」)。
作品の佳さとか価値とか言ったものは、主観的なひらめきのたまものであり、なおかつ客観的な分析の成果でもある。ひらめきのたまものと分析の成果は、起源において、絶対に相いれない部分を互いに持っているはずなのに、作品の佳さ/価値はいつもその両方を一致させようとする。
本当に作品が佳いとき/価値があるとき、ひらめきと分析は一致しているはずであるーーその原理に、これ以上深い理由は望むべくもない。あるいは単純に人間原理のもたらした錯覚だ。主観的なひらめきと客観的な分析が一致するような作品が、一般的に「佳い」とか「価値がある」とか言われるようになる。
だからそこに「それ以上」はなくていい。オタクは、なんとなく「いいな」と思う作品があったら、その作品の主観的「佳さ」と客観的「価値」が幸せに一致するような領域を探し続ければいい。その領域はたいてい見つからないが、探し続けることに意味はある(意味はない)。




ここでした話の前段階として、私の思考の一連の流れをこちらのブログにまとめていますので、もしこんなnoteの内容に興味あるヘンな方がいましたら、ぜひこちらもご覧ください。



注1:どうしても戦いたがるようなオタクたちのなかでも、主張の内容を(乱暴ながらも)取り上げているような類はまだましだ。よりやっかいなのは、敵対者の主張の内容を(取り上げているふりをしながら)全く取り上げず、主張の背景のみをとりあげ、非難するような類だ。
およそ主張というものには、内容と背景とがある。内容というのは、論理的におおむね理解できる部分で、前提と推論と帰結からなる。例えば、思考派の一部の主張を取り上げるなら、「オタクがもし知性を本性とするものならば、能動的な選択に拠らずに作品の評価を図る行為である『定型文の乱用』はオタクの本質に悖る行為だ」というような部分が主張の内容になるだろう。背景というのは、人がある主張をするに至った個人的・社会的な状況を意味している。それは、人が環境から不可避に与えられる先入観であるとか、人がある主張を主張することによって利益を得ようとする意図を意味する。さきに挙げた思考派の一部の主張について主張の背景の例を言うなら、「あるオタクがそんな主張をするに至るのは、若いころ、周りに知識偏重なオタクが多かったからだ」とか「あるオタクがそんな主張をするのは、そのオタクに素直で感動的な言葉を紡ぐ能力がなくて、そういった能力のある人をやっかんでいるからだ」とかいったものになるだろう。
主張の背景というものは、ある主張をする人に対し、その敵対者から好き勝手に想定されたものである場合がしばしばだ。ある主張を否定しようとする人は、主張の背景を勝手に作り出して勝手に非難することで、主張を(論理的に批判するのではなく)そもそもナンセンスなものであるとしてあらかじめ退けることができる。
そう、背景を取り上げてある主張を非難するというのは、一見論理的に見えて、まるで論理的ではない。それは、ある主張を、その内容にかかわらずに封殺してしまうような卑怯なやり口だ。
かつて、思い込みに支配された感情的な口喧嘩を退け、理性的な議論を実現するために(ではあまりないが)、私たちは部分的イデオロギー概念という概念を生み出し、また全体的イデオロギー概念という概念を生み出してきた。しかし、この社会には、議論ではなく挑発を旨として他人の発言をあげつらう人というのがいる(私たち全員が無意識にそうであると言ってもいい)。そういう、挑発がしたいだけの人々からすれば、部分的イデオロギー概念も全体的イデオロギー概念も、相手の主張に「非論理的なものである」とのレッテルを貼って、これと直接対決せずに素通りするための都合のいい装置にされてしまうのだ(私たち自身が、無意識にそうしてしまうのだ)。
背景を想定するという行為をこうして乱用することから、私は逃れていたい。持っている限りの慎重さでもって、こういった乱用から距離を置いていたい(そして、このnoteを注意深く読めばわかるように、この願いはいまだ果たされてはいない)。
もちろん、背景に目を留めるということは前提と推論の妥当性を問う上で重要な過程の一つなのだが。

注2:Twitterなんてものには、共感を求めるタイプの発言ばかりが増幅されるという性質があるので、Twitterに触れていると、「最近のオタクは全員“馴れあって”ばかりいる。俺は敵に囲まれている」というパラノイア的な危機感を抱きがちになる。言っておくと、昔ながらの賢さを持ったオタクはTwitterなんてやらない

注3:いや、そもそも、「自分が確立されていなければいけない」という価値観がそもそも自明なものではなくて、「自分の言葉で語る」ことにポジティブな意味を認める必然性はない、と考える人もいるだろう。
「自分がいる(ようにする)」ということにポジティブな意味を認める考え方は、「自分などいなくていい」ということにポジティブな意味を認める考え方に対して、常に優位だったわけではない。前者が後者より優位である(かのように)と思われるようになったのはごく最近の日本の若者社会の傾向だし、若者の間でも、べつに全員が「自分はいた方がいい」と思っているわけではない。「自己肯定感」なんて言葉は、所詮流行りものにすぎないのだ(「先進各国の若者と比べて日本の若者は自己肯定感が低くて、その自己肯定感の低さと国民の幸福度とはかかわりがある」といえるかどうかを冷静に統計的に検証しようとする研究も、真面目なところでは行われている。しかし、「自己肯定感」という言葉が日本社会にとって新語である時点で、この概念は問題解決に対して過大評価されている可能性が高いだろうと私は思っている)。
「自分の言葉で語るべきだ」という考え方が理性的であるのと同じくらい、「自分の言葉で語るべきではない」という考え方も理性的である場合がある。というか、最終的にはそれは人間個々の人生哲学の問題だろう。「自分の言葉で語るべきだ」と無限定に言い切ってしまうことは、いささかナイーブだと言わざるを得ない。

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