『名探偵マーニー』を読み終わりました。『名探偵マーニー』面白かったです。『名探偵マーニー』を読めっ。 『名探偵マーニー』は木々津克久の週刊連載漫画です。普通の女子高生マーニーが学校やご町内や裏社会で起きるいろいろな事件を推理して解いていきます。女子高生だけどけっこう普通にお金とか取ります。普通ってなんだろうわかんないけど。 木々津克久は『フランケン・ふらん』とか『開田さんの怪談』とか書いてらっしゃる方です。僕は『フランケン・ふらん』もめっちゃ好きですが、『名探偵マーニー』
一つ。喧騒、というほどでなくとも、一日じゅう自分の周りにだれか人がいると、その気配だけでもうっとうしいものだ。周囲から感じるひとの気配に耐えられなくなったとき、私は薄暗い部屋に引きこもりたくなる。 一つ。たとい周囲からひとの気配を消しても、まだうっとうしいものが残っていることがある。それは自分自身の心の声だ。暗闇の中でも絶えず聞こえてくるモノローグにさえ耐えられなくなったとき、私は頭の中に大音量で音楽を流したくなる。 以上二つの願望が、いつのまにか私の頭の中にひとつの部屋を
私は以前、『解像度』なる言葉が、特殊な意味で、特定の層の人間に、近年特に、使われているのではないかという話をしました。 この話の時点で、実証性をある程度犠牲にしている面もあったのですが、これから私がしたいのはもっと曖昧で印象論寄りの話です(はっきりした議論ではなく曖昧な疑いとしてこのnoteを提示することで、まずはこの話題に関わろうとするフォロワーを得ようという意図が私にはあります)。 これからしたいのは、RGB文化とでもいうべき文化が、複数のサブカルチャーにまたがって、明
私には、オタク論やフィクション論や文化論を(学術的な議論ではなく日常的な話題として)話す友人(?)がいます。彼は彼自身が気になったネット上の記事やトレンドをしばしば私と共有してくれるのですが、その中に、「百合オタクによる百合文化圏の自己分析」とでもいうべき記事も含まれています。 私は先日も、彼が教えてくれるのに従って、百合オタク自らが百合という文化(?)の歴史(?)について語っている文章を読んでいました。その文章に「解像度」という言葉が出てきたとき、私はふと思ったのです。「百
オタクが作品を楽しみ、味わうとき、そこにはいくつかの流派がある、らしい。 一方、およそ作品というもの(アニメでも漫画でもゲームでもいい)は、頭を空っぽにして見たものを見たまま受け取るのがベストな楽しみ方であるし、唯一の楽しみ方だ、と言おうとする人たちがいる(もうちょっと穏当なパターンだと、ジャンルによって程度の差はあるが、作品というものは基本的に“素直に”楽しむべきだ、という主張になるだろう)。 例えばこんな感じ。 こういう人たちを“感覚派”とでも呼ぼう。 他方、およそ