『解像度』の意味

私には、オタク論やフィクション論や文化論を(学術的な議論ではなく日常的な話題として)話す友人(?)がいます。彼は彼自身が気になったネット上の記事やトレンドをしばしば私と共有してくれるのですが、その中に、「百合オタクによる百合文化圏の自己分析」とでもいうべき記事も含まれています。
私は先日も、彼が教えてくれるのに従って、百合オタク自らが百合という文化(?)の歴史(?)について語っている文章を読んでいました。その文章に「解像度」という言葉が出てきたとき、私はふと思ったのです。「百合界隈の人々って、『解像度』ってよく言うよなあ」と。そして、「『解像度』って言葉、昔からこんなに一般的だったっけ? これってひょっとして流行り言葉?」とも。


言葉というものが「文字・音」と「意味」のみを持っているのであれば、人類は(ある面では)幸せなのでしょう。しかし実際にはそうではなく、言葉には「文字・音」と「意味」以外に「背景」とでも言うべきものを持っています。言葉を「背景」抜きに使うことはできません。
例えば、『イノベーション』とか『エビデンス』とかいった言葉には、単語そのものの意味とは別に、「『意識高い系』が使いがちな言葉」というイメージが付着していて、そのことが『イノベーション』とか『エビデンス』という言葉を使う人間に独特な印象をもたらします。「『意識高い系』は『イノベーション』とか『エビデンス』とか言いがちである」という公式は、生活感覚では、「『イノベーション』とか『エビデンス』とか言う人はすなわち『意識高い系』である」という公式に即座に変換可能です(もちろん、論理的にはこうした変換は妥当ではありませんが)。ですから、ある人が『イノベーション』とか『エビデンス』とか言う人は、その単語を用いることにどれだけ正当な理由があろうと、『意識高い系』のレッテルを貼られる可能性があるし、そんなレッテルを貼られても仕方ない、ということになります(かてて加えて、『意識高い系』という言葉がレッテルとして機能して、またネガティブなイメージが付着した言葉であるということにも、また一つ別な問題が横たわっています)。


私は、百合の歴史についての文章を読んで、『解像度』という言葉になんらかの背景を感じ取りました。「『解像度』という言葉は、ある特定の特徴を持った人々にとくべつよく使われる言葉である、ような気がする」という感覚を得ました。私はこの感覚を、もう少しだけ多くの資料で裏付けて、もう少しだけ詳細に理解したいと思ったので、『解像度』という言葉の使われ方について調べてみることにしました。

『解像度』という言葉ははたして、どういう意味を持っていて、どういう人々に使われていて、その使われ方はどのように変化してきたのでしょうか。


『解像度』の意味

Twitterが世界のすべてではないということは、言うまでもない事実です。しかし、Twitterが世界のある面を実によく見せてくれるということもまた、事実です。私は、2015年から2020年現在までの、『解像度』という言葉を含んだツイートを集めることで『解像度』という言葉の使われ方について調べることにしました。

まず、『解像度』という言葉の意味ですが、この単語が使われるとき、次の4つの意味でほとんどすべてが説明できるということがわかりました。また、複数の意味の中間にあって分類しづらい用例は、理論的には存在しえますが、Twitter上ではほとんど見られませんでした(実用に限れば排反的な分類と言える、ということです)。
以下、4つの意味を説明していきます。

① 画像・音声・レーダー・センサー等のデータの、一定時間・空間内における有効な値の個数。データの密度。
この意味が原義と言っていいでしょう。
2015年から現在まで、この用法での使用が一番多いです。

② 世界や社会の“状況”を細やかに認識できるかどうか。外界というソフトな情報を取り扱う能力。
①ほど一般的ではありませんが、昔から使われ続けている用法です。ただ、近年この用例は増えてきています。
世界や社会の様々な事物に対してなんらかの反応を返す人間を、外界を忠実に写し取るカメラにたとえている表現なのだと思われます(注1)。

③ 自分自身の抱いたアイデアや違和感を細やかに認識できるかどうか。心というソフトな情報を取り扱う能力。
どちらかといえば近年新登場した用法です(昔は全くなかったというわけではないですが)。
ここでは、人間をカメラのような受像機にたとえるよりも、むしろモニターのような映像機にたとえるようなニュアンスが強いです。

④ ある創作作品が、特定の世界観を細やかに描き出せるかどうか。丁寧な描写力。
これもどちらかといえば新しい用法です。
ストーリーを持った創作作品は、独立した1つ(以上)の異世界を離れた位置から“描写”するものである、という前提がここにはあるのだと思われます。ここでは作者あるいは作品そのものが、異世界を写し取るカメラのメタファーです。


『解像度』という言葉を使う人、場面

次に、『解像度』という言葉を使っているのがどんな人でどんな場面かですが、(意味によって区別できる限りで言うと)次の5つの集団が目立っています。

A 映像機器やAV機器のスぺックについて語る人、場面
パソコンのモニターのスペックやイヤホンのスペックなどの話題で①の意味での『解像度』がよく使われるようです。とくに、音声を出力する機器の品質について『解像度』という単語を用いるのは、門外漢としては意外に思えますが、AV機器界隈ではかなりよくみられます。

B イラストや絵画の質について語る人、場面
ツイッターにアップしたイラストの質やソシャゲのイラストの質についての話題で、①の意味での『解像度』が使われています。

C 意識高い系の人、マーケティングがどうこうとか語る場面
マーケティングがどうこうとか語る人(偏見にまみれた表現)は、②や③の意味で『解像度』と言う言葉をよく使います。いわく、「世界情勢への解像度を上げていかないといけな」くて、「自分の数年後の未来像への解像度を上げていかないといけない」のだそうです。ここでは、『解像度が高い』ことはポジティブな価値だとされています。
『顧客解像度』『収入の解像度』などの派生語も普及しているようです。

D 創作活動に造詣のあるオタク & 繊細そうなオタク
一部のオタクは、③や④の意味での『解像度』を使います。自分の身の回りの世界の細かな違和感への敏感さと、そういう人が描き出す異世界の精緻さは、ある程度の関連を持って語られています。ここで『解像度』は『繊細さの程度』とも言い換え可能で、それがポジティブに語られる場面もネガティブに語られる場面も当然出て来ます。ただ、こと創作作品の評価において、『解像度が高い』ことはポジティブに受け取られているようです。

E 社会問題について語る人、場面
自称「常識のある人」から、「世間知らず」に対して、「お前解像度足りてないから」という形で投げかけられる、非難のためにのみ使われるタイプの『解像度』があります。ここで『解像度』は②の意味です。
ここでの「解像度足りてない」はどうやら、LGBTQ+コミュニティの現場の実情とか、フェミニズムのリアルな近況とか、そういう「知っていて当然」な事態(?)に対する現状認識の甘さを指しているようです。つまり、『解像度』は、ある程度の高さを持っていることが当然の、前提的な要素として扱われています。


『解像度』の用法の変遷

さて、『解像度』という言葉の使われ方は、本当に変化しているのでしょうか。
結論から言えば、確かに変化しています。一連の変化にはっきりとした震源や変化時期があるかどうかはわかりませんでしたが、おおまかには2018年を中心に大きな変化が起こっています。
調べた限り、①の用法での『解像度』は昔から変わらず使い続けられています。変化というのは②③④のような新用法が(実質的に)新規に出現し、急速に普及したということです。具体的に言うと、②③④の意味での『解像度』は、2017年まではtwitterで1日に3~7回くらいしか使われていなかったのですが、2018年ごろから伸び始めて、今では1日に30回ぐらい使われる用法になっています。

以上2つのツイートからわかるのは、②③④の意味での『解像度』は、昔から一般的な用法だったわけではないということです。
最初に新用法で使い始めたのはどうやらC-意識高い系の人々であるようです。

C-意識高い系の人々 が使い始めた直後か、下手すると同時に、D-創作オタク & 繊細オタク がこれに続きます。Dのうち、創作オタクと繊細オタクのどちらがさきに『解像度』を使い始めたのかは判然としません(明確に区別はできないでしょうし)。ただ、やがて創作オタクと繊細オタクのいずれもが『解像度』を使うようになった結果、例えば「女性オタクは『解像度が』がどうこうって言いがち」のような雑な言説が、少なくとも日常感覚としては、可能になりました(ここで雑に持ち出された「女性オタク」の代わりに、「百合オタク」とかいった項を代入することも、まあ粗雑に話す限りでは可能なのでしょう)。

CやDの人々が『解像度』をよく使うようになり、ある程度まで『解像度』という言葉の大衆化が進んだ段階(ざっくり言うと2020年に入ったくらいのころ)で、Eの場面で『解像度』が使われるようになりました。これからの『解像度』は、非難のための言葉という性質を強めていくでしょう。

以上全ての過程を通して、『解像度』という言葉の意味の拡大を引っ張っているのはC-意識高い系の人々であったように見受けられました。そのため、「『解像度』っていうのは意識高い系の言葉」と述べてみることも、あらゆる次元で理不尽、とは言い切れません。


noteと『解像度』

C-意識高い系からD-オタクへと『解像度』なる言葉が手渡されてしまったのは、ひょっとするとnoteという場所があったからかもしれません。ひょっとするとですけど。

それに限らず、noteの利用者層と『解像度』には特別な親和性があるのかもしれません。

特別な親和性があるにせよ、ないにせよ、noteのなかで、『解像度』を含む記事は、着実に増え続けているようです。


2015年に限る……90件
2016年に限る……267件
2017年に限る……330件
2018年に限る……1680件
2019年に限る……5030件
2020年に限る(8月時点)……4390件

↑Googleで「解像度 site:note.com」のキーワードで検索したときのヒット数(2020年8月時点)
※Google検索におけるヒット数は複雑な概念であり、単純な記事数カウントとはみなせません。このデータはほんのちょっとした参考程度にしかならないので、あまり真に受けないでください。



注1:ここにはまた、「カメラとは、外界を恣意的にゆがめることなく忠実に写し取る」という考え方が無意識に前提になっています。
カメラの技術を少しでも学んだことがある人はよくわかっていることでしょうが、「カメラは忠実」というような考え方はさほど正しくありません。カメラで何かを撮影するとき、そこには、画角、露出、被写界深度、シャッタースピード、色調などなど、撮影する人が恣意的に選択しなければいけない要素が大量に存在します。そのどれを変更しても写真は全く別物になるのであって、一つの現実に対して「正しい」写真は無数に存在します。写真は「現実に対しての唯一で絶対の正解」ではないのです。
「写真は絵画やイラストよりは現実に忠実で正直」とは辛うじて言えるかもしれませんが、それもまた程度の問題でしかありません。

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