梶井基次郎の「檸檬」
あらすじ
「えたいの知れない不吉な魂」に始終抑えつけられていた「私」。ある日、京都の街や裏通りをあてどなくさまよっていた「私」は、前から気に入っていた寺町通の果物屋の前で足を止める。そこには珍しく好きな檸檬が並べてあった。1つ買いそれを握ってみると、抑えつけられていた不吉な魂がいくらかゆるんで、街の中で非常に幸福を感じた。「私」は久しぶりに丸善に立ち寄ってみることにした。しかし、憂鬱が再び立ちこめてきて、次から次へ画集を見ても憂鬱な気持ちは晴れなかった。買ってきた檸檬を思い出し、積み上げた画集の上に置いてみた。そして檸檬を爆弾に見立てて、そのまま置いて丸善を出た。「私」は、木っ端微塵になる丸善を愉快に想像しながら、京極の通りを下っていった。
印象に残ったこと
主人公の「私」が惹きつけられるものには共通点がある。それは「みすぼらしくて美しいもの」だ。日本古来の文化で言えば侘びと寂びのようなもの。場所柄からか風流を愛している。鋭敏な神経と美意識。そこに丸善や檸檬といった西洋や近代の象徴が対比的に描かれている。一方で、「私」の心理状態はどうだろう。京都の町を徘徊する暮らし。肺炎カタルと神経衰弱を患い、金もなく、焦燥や嫌悪感ばかりが募る。みすぼらしくても美しくありたい。そんな「私」の心持ちをひしひしと感じる。しかし現実は「えたいの知れない不吉な塊」に満ちている。また心持ちとは裏腹な行動をとる自分。いっそ破壊してしまえ。檸檬を爆弾に見立て、気取った丸善を爆破しようと考える。矛盾した自分自身へのアンチテーゼ。ささやかな抵抗。そういった読後感のある作品だ。
構造や構成
2つのキーフレーズ。「えたいの知れない不吉な塊」と「みすぼらしくて美しいもの」。はじめのうちは2つがまったくの別物として描かれる。前者が病だとしたら、後者は薬であろう。前者が苦しみであれば、後者は救いであろう。しかし、後半になるにつれて2つが奇妙にも重なり合ってくる。還元されていると思っていたものが実は混じり合っている状態。まさに混沌(カオス)。外側の世界の混沌だけでなく、内側の自分自身の無秩序化が時間の経過とともに描かれている。心情の変化や落差という意味では、芥川龍之介の「蜜柑」とも似ている。どちらも、大正から昭和という時代の空気感に通底している空虚をあぶり出す。
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