岡本かの子の「鮨」
あらすじ
東京の下町と山の手の境目にある「福ずし」。看板娘のたまよは常連客の人気者だ。その中の一人に皆から先生と呼ばれる、五十がらみの紳士の湊(みなと)がいた。ある日たまよは偶然、店の外で湊に会う。そして、以前から気になっていたことを大胆にも質問するのだ。「あなた、お鮨、本当にお好きなの」。湊ははじめは戸惑うものの、鮨を食べることが慰みになると語り出す。重篤な拒食症であった湊。それを視るに見かねた母親がつくってくれた鮨。酢飯を握った上に玉子焼きや烏賊の切り身をのせて並べてくれた。なぜだか不思議にそれらは湊少年の喉をするりと通った。近頃は、亡くなった母親を懐かしんで鮨をつまんでいたことも。その後、湊は姿を消した。ともよも「先生はどこかへ越して、またどこかの鮨屋へ行ってらっしゃるだろう」と漠然と考えるに過ぎなくなった。
印象に残った読後感
東京という大都会にはさまざまな事情を抱えた人々がいる。その事情はまったく違うようでいて、実は似通っている部分がある。二人の主役の場合、騒がしくにぎやかな世界の中で感じる孤独。他者と深いつながりを築く怖さ。現代の都会で生きる自分達にも共感できるところだろう。それにしても、ともよの問いかけは大胆だ。「あなたは鮨を本当に好きなの?」。普通はなかなか訊けないセリフだ。相手のこころの奥の奥を抉り出すような問い。キラークエスチョン。薄いつながりから深いつながりに展化する効果がある。ただし、ともよの本心は「あなたはわたしのことが好きなの?」だったかもしれない。しかし、問いに素直に答える湊。すれちがい。大都会はすれちがいに満ちていることを再認識させられる作品だった。
構成や企み
第三者視点で語られる形式なので、登場人物の心情は読者に委ねられる。台詞の裏に隠れたコンテキスト。それ故に読後感や余韻は人それぞれになるし、それだけに自分の感想を他者と共有すたくなる。作品は読者によって完成するのだろう。また、短編小説ながら2部構成になっているところも面白い。前半は「舞台や人物の状況」、そして後半は「湊のモノローグ」。明らかにクライマックスは後半にある。そのきっかけが前述したたまよの問いかけだ。この構成は人物の対比にもなっているのではないだろうか。前半はたまよ、後半は湊。東京の下町と山の手のあわひが舞台なのもうなづける。ふたりの性差や年齢差も「湊のモノローグ」の呼び水になっていて感心するばかり。