見出し画像

記紀が隠している初代天皇!?天村雲命の正体とは?

お元気様です!歴史沼チャンネルのきーです。

日本の初代天皇である神武天皇の正体は天村雲命だった!?
神武天皇と阿波国風土記に隠された暗号とは?
日本古代史のカギを握る天村雲命と阿波の意外な関係とは?
今回は、神武天皇の正体であろう天村雲命について私きーの大大大考察回としてお話していきます。

このチャンネルは知識の量や深さに関係なく、歴史を楽しむコンテンツを聞き流しスタイルで紹介しているのでよかったらチャンネル登録よろしくお願いします。

神武天皇の功績とは


今回の動画は前回の動画の続きになりますので、前回の動画を見ていない人は先にそちらからご覧ください。

ざっくり前回までどのような話をしていたかというと、神武天皇という人物は存在しておらず、そのモデルとなる存在がおり、そのモデルとなった存在は天村雲命であるということ。

そして神武天皇のほぼ唯一ともいえる功績である神武東征は、神武天皇が行った訳ではなく、出雲口伝に伝わるニギハヤヒ=モノノベ氏の東征の話を神武天皇の功績として記紀では語っているのではないか?と考察し、神武天皇=天村雲命とはのちにヤマト王権の大王と呼ばれる一族の、はじめて奈良盆地に基盤を作った人物だと考察しました。

天村雲命とは



では記紀によって神武天皇に被せられた天村雲命とはどんな神様なのでしょうか?

天村雲命とは、記紀には全くと言ってよいほど情報がありません。

天村雲命の記載が見られるのは、『先代旧事本紀』や籠神社の宮司である海部氏の系図である『勘注系図』です。

『先代旧事本紀』とは、神代から推古天皇に至るまでを記した歴史書で、9~10世紀初めの平安時代に成立したとされています。

620年聖徳太子、蘇我馬子らの撰録するところと記していますが、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などからの引用があるので、『先代旧事本紀』は807年以後に成立したものだと考えられています。

著者は未詳ですが、「天孫本紀」には尾張氏および物部氏の系譜を詳細に記し、またほかにも物部氏関係の事績が多くみられるので、著者は物部氏の一族だと考えられています。

『先代旧事本紀』は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊彦天火明饒速日(ニギハヤヒ)を同一のように扱っていて、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が天道日女命(アメノミチヒメ)を妃として天香語山命を生んだとしているので、カゴヤマの父はニギハヤヒということになります。
『先代旧事本紀』によると、天村雲命には日向の阿俾良依姫(アイラヨリヒメ)と丹波の伊加里姫(イカリヒメ)の二人の妃がいたことになっていて、阿俾良依姫との間に天忍人命(アメノオシヒト)、天忍男命(アメノオシオ)、忍日女命(オシヒメ)が、母親不明の子として角屋姫(ツノヤヒメ)がいたとします。

一方、海部氏系図は、京都府宮津市に鎮座する籠神社の社家、海部氏に伝わる系図であり、古代の氏族制度や祭祀制度の変遷を研究する上での貴重な文献として国宝となっています。

勘注系図では”始祖彦火明命 - 児天香語山命 - 孫天村雲命”となっており、天村雲の子世代から枝分かれします。

系図上の天村雲の母は穂屋姫命(ホヤヒメ)で、ホヤヒメの両親は彦火明と佐手依姫(サデヨリヒメ)となっています。
 天香語山は彦火明と天道日女(アメノミチヒメ)との間の子なので、天香語山と穂屋姫は母違いの兄妹ということになりますが、天村雲の別名を天五十楯天香語山命としていたり、”彦火明命 - 建位起命(タケイタツノミコト) - 宇豆彦命”という系統があったりではっきりしません。

記紀には何も記されていない天村雲命ですが、『先代旧事本紀』にはあるエピソードが残されています。

饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとあり、天村雲命は邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人されていて、天孫降臨のとき葦原中津国には未熟で荒い水しか存在せず、父の命によって天村雲命が高天原より天津水(天忍石長井水)を持ち還り、この水を皇孫に奉ったというエピソードが残っています。

ヤマトに婿入りした阿波の天村雲命=神武天皇


ここからは私の考察になりますが、そんな天村雲命は神武天皇のモデルであり、天村雲命はのちに大王家となる阿波勢力奈良盆地に勢力を広げるための足掛かりとしてヤマトに婿入りした人物ではないでしょうか?

要約すれば、ヤマト王権の中心的役割である大王(天皇)家は阿波出身であり、天村雲命=神武天皇の出身地は阿波であり、天村雲命が奈良盆地に勢力を持っていた出雲勢力の事代主の娘である媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)に婿入りしたことで阿波勢力が畿内で権力基盤を作るきっかけになったのです。

日本に唯一の天村雲神社


昔は阿波国、現在の徳島県が天村雲命=神武天皇の出身地とする理由は、天村雲命を祀る神社が阿波にしかないことです。

徳島県吉野川市山川町には天村雲神社があり、ご祭神は天村雲命と伊自波夜姫命です。

伊自波夜姫命が祀られている理由は不明ですが、この天村雲神社は平安時代にはしっかりとした由緒があるとされる延喜式に記されている式内社です。

天村雲命を祀る神社は、全国に数社ありはしますが、延喜式内社であることはもちろん、天村雲を冠している神社は阿波の国である現在の徳島県にしかありません。

この神社のある地名が、徳島県吉野川市山川町村雲であることから考えると、もしかしたらこの神社は天村雲命の生誕の地なのかもしれません。

天村雲命は、別名「天五多底命(あめのいだてのみこと)」とも呼び、射立の神です。
天村雲神社の周囲は、湯立という字が残っていますが、これは射立からの転訛したものとも考えられています。

阿波国風土記の記述


『阿波国風土記』にも、天村雲命がヤマトに基盤を作った神であることを暗示している部分があります。

『阿波国風土記』とは、奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた「風土記」の阿波国版です。
現在は所在不明となっていて内容は完全にはわかりませんが、所在が分からなくなった経緯もいわくつきで、『阿波国風土記』を研究した研究者が獄中死していることから、『阿波国風土記』には記紀神話の常識を覆すような内容が記されているのではないか。。。と噂されています。

そんな『阿波国風土記』にも逸文が残されており、その逸文にある有名な一節があります。

空よりふり下りたる山の大きなるは
   阿波国にふり下りたるを,天の元山といい
   その山のくだけて,大和国にふりつきたるを
   天香具山というとなんもうす

この一節は一般的には、徳島県名西郡神山町鬼籠野元山にある天岩戸立岩神社のご神体である大きな切れ目の入った巨石と奈良県の香具山にある天岩戸神社に同形の巨石の御神体があり、風土記に書かれているように阿波から別れ天岩戸として祀られていることを表している。と言われています。

しかし海部氏系図には、天村雲の別名を天五十楯天香語山命と記してありました。
そう考えると、この一節はこのように解釈する事は出来るのではないでしょうか?
「元は阿波国に降り立った、その後に大和国に降り立ったのを天香語山という」
このように解釈すれば、この『阿波国風土記』の逸文に残されている有名なこの一節は、天村雲命がヤマトへ進出したことを暗示している可能性もあるのです。

伊勢神宮と天村雲命


天村雲命を祖神とする一族がいることはご存じでしょうか?
その一族とは、度会氏です。

度会氏といえば、伊勢神宮の外宮の神官を務める一族でもあります。

もし天村雲命が阿波勢力が大和盆地に進出するきっかけを作った人物だとすると、度会氏が伊勢神宮の外宮の神官を務めている理由もわかってきます。

伊勢神宮の外宮に祀られている神様は、豊受大神という五穀豊穣を司る女神です。
この豊受大神と同一神とされている神様が、オオゲツヒメノカミです。

オオゲツヒメノカミといえば、イザナミとイザナギの国生み神話の際に阿波国の祖神に充てられえている女神なのです。

伊勢神宮の外宮に祀られている豊受大神と同一神とされているオオゲツヒメノカミ、その外宮の神様を祀っているのが度会氏、そして度会氏の祖神が天村雲命

伊勢神宮の外宮では、天村雲命=神武天皇の子孫が祖国の神である豊受大神=オオゲツヒメノカミを祀っているのです。

籠神社と天村雲命


伊勢神宮に祀られる前に、天照大神と豊受大神がどちらも祀られていた神社があります。

それは丹後国、現在の京都府にある籠神社です。
籠神社の宮司を務めるのは、代々海部氏であり、国宝になった『勘注系図』も籠神社の社家として伝わるものです。

海部氏の祖神は、饒速日と同一とされているホアカリであり、尾張氏と同系と言われているので天村雲命の系譜でしょう。

そして籠神社のある丹後国には、「天女の羽衣伝説」が伝わっています。
「天女の羽衣伝説」については、こちらも動画も参考にしてください。

この伝説で丹後に降り立った天女は、豊宇賀能売命(トヨウカノメノミコト)であり、この豊宇賀能売命とは、伊勢神宮外宮に祀られる五穀豊饒の農耕神、豊受大神のことです。

豊受大神とは、阿波国の神であるオオゲツヒメノカミと同一神とされる神です。
そして天村雲命の妻である「伊加里姫(いかりひめ)」は丹後国の女性です。

そう考えると、阿波にいた天村雲命が丹後に降り立ったことが「天女の羽衣伝説」となったのかもしれません。
天村雲命は丹後国へ赴き、丹後国の女性を娶り、丹後で自分の地元の神であるオオゲツヒメノカミ=豊受大神を信仰した…ことが天女が降り立った伝説となって語られているのではないでしょうか。

そんな天村雲命と丹後国で娶った「伊加里姫(いかりひめ)」との子か、もしくは天村雲命に繋がる系譜が海部氏だと考えれば、『勘注系図』と『天女の羽衣伝説』がつながりませんか?

天村雲剣と尾張氏


天村雲と聞くと、1番最初に思いつくものといえば、日本の三種の神器のひとつである草薙剣こと、天村雲剣ではないでしょうか?

天村雲剣が記紀神話で登場するのは、スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治の場面です。
生贄に捧げられそうになっていたクシナダヒメを救うために、8つの頭をもつ大蛇を酒に酔わせた隙に退治し、その大蛇の尻尾から出てきたのが天村雲剣です。

出雲口伝では徐福が饒速日を名乗り、スサノオノミコトとも名乗ることになっています。
饒速日とスサノオノミコトが同一神なのかは疑問が残りますが、スサノオノミコトの子供である五十猛尊(イタケルノミコト)天五多底命と同一神とされ、天五多底命は天村雲命の別名ともされています。

饒速日の子か孫である天村雲命は、スサノオノミコトの子である五十猛尊と天五多底命の関係でスサノオノミコトにもつながってきます。

そんなスサノオノミコトがヤマタノオロチの尻尾から取り出した、天村雲剣は天村雲命の持ち物だったのではないかと思われます。
そうでなければ、偶然名前が一緒だっただけと考える方が不自然です。

それは経津主神(フツヌシ)が布都御魂という刀(剣)の象徴であり、神名でもあるのに通じます。
『古事記』でいうと、イザナギが迦具土神(カグツチ)を斬ったときに使った刀を天之尾羽張(アメノオハバリ)または伊都之尾羽張(イツノオハバリ)としており、これも刀であり神名です。

そしてこの天村雲剣は、ヤマトタケル伝説で用いられヤマトタケルが草を薙いで難を逃れたので草薙剣と改名する事になります。
改名された草薙剣は、ヤマトタケルによって愛知県にもたらされ、ミヤズヒメが草薙剣を祀ったのが熱田神社の起源となっています。

しかしなぜわざわざ愛知県に祀ったのでしょうか?
それは祀ったミヤズヒメが尾張氏の女性だったからです。

尾張氏の祖とは、天忍人命であり、天忍人命は天村雲命とアヒラヨリヒメとの間に生まれた子供なのです。

三種の神器の一つである草薙剣こと天村雲剣は、天村雲命の持ち物であったからこそ、それを祀ることになったのは天村雲命の子を祖神とする尾張氏だったのではないでしょうか?

まとめ


いかがでしょうか。
今回は、神武天皇の正体はヤマトに婿入りした阿波の天村雲命について深堀してきました。

日本には、神武天皇像が3体あります。
1体は日向、現在の宮崎県、その他は阿波、現在の徳島県、そして尾張、愛知県です。

記紀神話の上で神武天皇の出身地が日向になっている以上、神武天皇像が宮崎県にあることは理解できますが、なぜ徳島と愛知に1体ずつあるのかが疑問でした。

しかし神武天皇=天村雲命であり、天村雲命が阿波出身であることを考えると徳島に神武天皇像がたっていることも、天村雲命の子孫が治め、天村雲剣を預かる尾張にも神武天皇像が立っている理由も理解出来てきます。

もしかして次に神武天皇像が立つことがあるのであれば、その場所は天村雲命の系譜である海部氏がいる丹後かもしれませんね。

今日はここらへんでお別れです。
ご視聴いただきありがとうございました。
また歴史を楽しめるコンテンツを配信していきますので、高評価やコメント、チャンネル登録、あとスーパーサンクス機能も使えるようになりました。
あと、メンバーシップでは限定動画や古代史に沼っている人が集まるオフ会も開催していますので気になる方はメンバーシップの参加もよろしくお願いいたします!
ではまた、違う動画でお会いしましょう!
ばいばい!

この記事は私が運営しているYouTubeチャンネル【きーの歴史沼チャンネル】の動画を、テキストにしたものです。



いいなと思ったら応援しよう!