ブライ・ノーウェア #1
ネオサイタマ。シノノメ・ディストリクト。
キリウキ・ドージョーの師範代であるモチギ・レンスケはその日、自らが受け継いだドージョーを閉ざす決意を固めた。
いや、正確には戦意の喪失、ヤバレカバレの諦めと言った方が正しいか。
かつてのキリウキ・ドージョーは、多くの門下生が集うカラテ・ドージョーだった。
街の若者たちが集い、日夜自身の心身を鍛える修養の場。
地元の住民たちとの交流も盛んで、実際このディストリクト内では愛された存在だった。
先代のドージョー・マスターであるキリウキ・ゲンイチセンセイから後継者としてドージョーを託されたあの日から、モチギはこのドージョーを守るため、より発展させるために尽力してきた。
だが、あの対外試合の後は……。
あの日の出来事を思い出すにつれ、彼のニューロンには偏頭痛めいた痛みと恐怖が蘇る。
不遜なる対戦者たち。
たった二人に次々と潰されて行った門下生たち。その凄惨な末路。
ドージョーに響き渡る残虐な笑い声と悲鳴。
そして……ニンジャ。
(もう、やめにしよう)
モチギは悪夢を拭い去るようにかぶりを振ると、先代の写真が飾られた
「スイマセン、ゲンイチ=センセイ。やはり、私には土台無理な話でした」
その声には隠しきれない悔しさが滲み出ていた。
私がニンジャより強ければ。あるいは、ニンジャであったならば!
そんなモチギの悔恨を中断させたのは、意外な訪問者であった。
「邪魔するぜ」
ドージョー入口の引き戸を開けて現れたのは、シャークスキンのテイラード・ヤクザスーツを身に纏った屈強な男だった。
ナムサン!この不敵な荒くれ者は、一体何者か?
地上げを狙い送られてきたヤクザ・バウンサーか?
キリウキ・ドージョー壊滅の報を聞きつけて笑いに来た悪意の第三者?
あるいは、あのブラック・ファイア・カラテスクールからの……
「何か御用ですか」
モチギは震えを隠すように、気丈に声を張って来客者に呼びかけた。
(シマッタ!)
己の声が僅かに裏返ったのを聞き取り、モチギは歯噛みした。自ら正体もわからぬ手合いに隙を作るとは!
そんな彼の姿を見て、ヤクザスーツ姿の男は破顔した。
「久しぶりだなァ!モチギ=サン!」「エッ?」
ヤクザサングラスの下から覗いた男の顔を見て、モチギは呆気に取られた。
「キリウキ=サン?」
それは彼此10年は会っていない、かつての兄弟子であった。
キリウキ・ケンルイ。
このドージョーのマスターである先代キリウキ・ゲンイチの一人息子にして、このドージョーから追放処分を受けた破門者である。
「何年ぶりだ?懐かしいじゃねえか。エエッ?」
キリウキは革靴のままで敷居を跨ぐと、ズカズカと場内へと踏み上がってくる。
「このドージョーのボロ家っぷりもちっとも変わってねぇじゃねえか!ハハ!」
そのままくたびれたドージョーの方々を、懐かしいものを見るような目で見て回る。
実際、その視線にはセンチメントのようなものを微かに感じ取れた。
「むしろ前より汚くなったんじゃないか?門下生はどこだ?俺がセッカンしてやる」
だが。
「キリウキ=サン」
モチギはあえて、厳しい態度を取った。
風前の灯とはいえ、相手がかつての兄弟子とはいえ、自分はこのキリウキ・ドージョーの主人である。
先代から受け継いだドージョー・マスターとして、果たさねばならぬ義務がある。
「何故ここに?あなたは破門された身ですよ」
「そう硬いこと言うなッて!そいつは親父の代の話だろ」
キリウキはモチギの態度に、面倒くさそうに手をヒラヒラと振るいながら軽口で返す。
10年前から何ひとつ変わらぬ、この男の不真面目さを隠そうともしない不遜な態度。
だが、続いた言葉はモチギの知る彼の口からは出るものとは思えない、意外な台詞だった。
「お前も知っての通り、俺は親不孝者よ。だからひとつ、親孝行でもしてやろうと思って立ち寄ったんだが……」
モチギは、キリウキの言葉に聞き入った。
ドージョーを継いで7年。彼も多くの若者たちを見てきた。
兄弟子の言葉に嘘や誤魔化しが含まれていないことを、その経験から培われた観察眼が見抜いたのだ。
「むしろ、聞きたいのは俺の方だぜ!モチギ=サンよ!」
「このドージョーは一体全体どういうわけだ?」
キリウキの声ががらんどうのドージョーに響き渡る。
「俺の知る限りじゃ、いくらなんでもここまでしみったれた場所じゃなかった筈だぜ」
「近所の連中も随分と冷たい様子じゃねえか。エエッ?実際苦労したぜ、昔の我が家に帰るのも一苦労よ」
鋭い、とモチギは思った。
実際、彼のドージョーに対する地域住人の態度は日に日に冷たくなっている。
キリウキ・ドージョーに加勢するものはブラック・ファイア・ドージョーの敵と見做す、との通告が出回っているからだ。
何故このような状況に追い込まれたのか。
その一部始終を、10年越しに会ったこの破落戸めいた兄弟子に教えてよいものか。
モチギは暫し逡巡したが、彼の口は驚くほど素直に、状況を語ることを決意していた。
「それは……」「アア?どういうわけだ」
あるいは、この苦悩を他のものに打ち明けたかったのやもしれぬ。
一人で抱え込むには、その記憶はあまりに忌々しく、苦痛で、恐ろしさに溢れていた。
促すキリウキに従うように、モチギは語る。
「ドージョー破りに遭ったのです。ブラック・ファイア・カラテスクールとの戦いに敗れて…」
ブラック・ファイア・カラテスクール。
その名を口に出すたび、刻まれた屈辱と怒り、そして恐怖がモチギの胃にのしかかる。
「ハ。それでお前の愛弟子どもは皆腰を抜かして去ったってか」「死にました。殺されたのです!」
モチギは目前のシツレイ者をキッと睨みつけた。
その視線には、静かな刃めいた怒りと、一筋の悲しみが含まれていた。
モチギのその態度に、キリウキも思わず息を飲む。
次いで、それを誤魔化しすように半ばとぼけた声での相槌。
「殺されたァ?」「そうです。一人残らず」
「一人残らずッて……ナンデ」
「それは……」モチギは口を噤んだ。
果たして、このヤクザ者と化した兄弟子に身内の恥を晒してよいものか。
また、これを口にして正気を疑われはしまいか。
「モチギ」
兄弟子は、彼の目をじっと見据えていた。真摯な目つきであった。
そこには、かつての粗暴だが頼りになる兄貴分の男がいた。「話してみろ。俺に」
「……相手はニンジャだったのです」
モチギは、臓腑の奥から吐き出すようにその言葉を口にした。
ニンジャ。かつて世界を支配した半神的存在。
超常のニンポと恐るべきカラテを振るう異形の怪物。
御伽噺の類だと思っていた。
だが人々はメガコーポの影に、ニュースの中に隠された真実に、それは未だにいると言う。
モチギはかつてその手の言説に懐疑的だった。
しかし、実際に目にした今は。
「…プ……ハハハハハ!」
モチギの言葉を聞いたキリウキは、真顔を作っていたが、やがて我慢できなくなったように笑みを漏らし始めた。
声は空っぽのドージョーに響くほど大きく、また、そのリアクションも非常に大仰である
「そうか。相手はニンジャか!」
愉快そうに、手で膝を叩きながら。
「それで?お前の愛弟子を皆殺しにしたのは、全員ニンジャなのか?ドージョーの連中全員が?」
下顎の無精髭を撫でながら、目元に笑みを浮かべたからかい混じりの問いが返ってくる。
(…やはり、信じてはもらえないか)
先程一瞬見せた真摯な態度。その態度ならばあるいはと信じたが。モチギは自らの愚かさを恥じた。
「……2人です」
渋々と言った声で、モチギは問いに答える。
その言葉にはもうこの話は終わりにしよう、というニュアンスが多分に含まれていた。
「そうか。2人も。……いや、丁度いいか」
兄弟子は何か納得するように、頷いてみせた。
「お前は実際運がいいぜ、モチギ=サン」
そう言って、顎を撫でる兄弟子の顔に目をやり、モチギは唖然とした。
「俺もニンジャだ」
彼の顔はいつしか、メンポに覆われていた。
「ア、アイエッ」
モチギは思わず腰を抜かし、その場に倒れこむ。
キリウキは乱暴な男で、ドージョーを出た後真っ当に生きていけるような男だとは思えなかった。
いずれ身を持ち崩し、裏社会の人間になることは火を見るより明白と言えた。
だが、ニンジャ?兄弟子がニンジャ?ナンデ?
「この姿じゃアイサツは初めてだったか?」
兄弟子は拳を掌に打ち付けると、しめやかにアイサツを行った。
「ドーモ、モチギ=サン。エアレイドです」