有名な魚
「最近あの有名な魚どうしてるんよ?」
夕食後、居間でテレビ鑑賞の最中、唐突に祖母が口を開いた。夕食後といっても食べたのは祖母と父だけで、車で3分の距離に住む私は平均年齢80超えの2人暮らしの祖母と父を気にかけ、こうして度々顔を出す。
今も私が作った夕食を「うまい」「おいしいのう」とたいらげ食後のお茶を飲んでいたところだ。
一見『家族団欒』のように聞こえるが、瞬間湯沸かし器で生真面目の父に天然の祖母と無愛想生涯反抗期の私。会話は少ない。
「最近あの有名な魚どうしてるんよ?」
「は?」
「最近あの有名な魚どうしてるんよ?」
天気やら事件やら今日生まれた赤ちゃんやら見ていたはずなのに。狂った様に有名な魚としか言わなくなった祖母。私は『有名』『魚』と2つのキーワードを頭ではじき出す。
「さかなクン?魚のぬいぐるみかぶってる人のこと言ってんの?」
「…違う。」
「ニモ?オレンジの魚?ディズニーのキャラクター?」
「…違う。」
「お前あれか?釣りする人か?梅宮辰夫ちゃうんか?」
テレビを観ていた父も参戦してきた。
「…違う。」
違うのか。よっしゃ。答えキター。って思ったのに。
手応えがあったのだろう。梅宮辰夫と答えた父は祖母に違うと即答され秒でキレた。
「お前何ボケたこと言ってんのじゃー。」
父の声が築100年の中村家に響く。たぶん隣の南方さん家にも聞こえている。でもそれも日常茶飯事。祖母も怒鳴られるのは日常茶飯事。
アホボケ言われても澄ました顔で「有名な魚」と魚の近況を問い続けている。
父が怒鳴るのも無理はない。認知症と診断されたわけではないものの検査を受けた事がないだけで、今日もみんなで食べた貰い物のカステラを「私は食べていない」と言い張り、「あんたらだけ食べて……」と呪いをかける様な目で嫌味を言い続けてくる。
認知症の思考回路なんて計り知れない。介護福祉士として働く私はよく知っている。この間も90過ぎの利用者さんが「そろそろ子供産まな」と言っていた。96歳の祖母が言う『有名な魚』もどこまで信じて相手にしていいものか。
「ねぇ。水族館?海遊館のこと言ってんの?」
「…違う。」
「有名な魚て。何の事言ってんのや。…魚?」
秒ギレして棄権したと思っていた父もどうやら気になる様で魚魚とぶつぶつ呟いている。
「それ最後にいつ見たん?どこで見たん?」
「有名な魚あったいしょ。昔よお人襲ってテレビに出てたやいしょ。」
「……お前。鮫か?ジョーズのこと言ってんのか?」
「…あの鮫、まだ人襲うんかえ?」
頭の中の『有名』『魚』の2点に鮫が加わり急に線が繋がった。
私の姉はオーストラリアに住んでいる。旦那共々サーファーで最近は子供もサーフィンデビューしたらしい。
姉が帰国滞在中、父はよく海は危ない、サーフィン止めろと唱えているが無論父の言うことなど聞き入れるはずもなく、オーストラリアでサーファーがサメに襲われたというニュースを見る度父は「おい、やっぱりオーストラリアは危ないぞ。サーフィンらするもんちゃうわ。」となぜか勝ち誇ったようにドヤ顔で言っている。
祖母はその事を言っていたのか。
「ジョーズて。お前それ映画の中の話やないか。」
怒鳴る父の声を遮る様にわたしはゆっくり、はっきりと言った。
「大丈夫。まゆこ(姉)の住んでる街にサメいないらしいで。」
「…そうかえ。」
祖母は安堵して微笑んだ。
カステラを食べた事を忘れても私があげた敬老の日のプレゼントを忘れても鍋に火をつけたのを忘れてもどんなにアホと怒鳴られても。
祖母はボケてなどいないしJAWSは間違いなく有名な魚だし祖母は純粋に孫の身を案じるおばあちゃんだ。
「あの白い人何する人なえ?」
またしても急過ぎる祖母の不意打ち。
デーモン小暮とわかるまでに10分かかった。