「セカイのミク」の存在論、あるいは初音ミクの可能性
まえがきのまえがき
こんにちは。ボカロが好きです。ボカロはいいぞ。
……という書き出しで怪文書を時々したためています。きぃと申します。
#ボカロリスナーアドベントカレンダー2021(第二会場)参加記事です!
素敵な企画を主催してくださっているobscure.さんありがとうございます!
第一会場は発表3日ほどで埋まってしまい、企画を知ったときにはいっぱいでした……。第二会場も半分くらい埋まっていてすごい! 毎日熱量のある投稿が楽しみです。
ぜひぜひ他の方の投稿もお読みください!
こういった企画に参加するのは初めてです。というか、ネットにTwitter以上の長文を晒すこと自体、10月にnoteを始めるまでしてこなかったのでいろいろ拙いところがありますが、お付き合いいただけると幸いです。
注意! これは「私のプロセカ観」「私のボーカロイド観」を先哲の力で頑張って言語化しよう!という記事です。実際の楽曲や公式、ボカロPそれぞれの思想などとは全く異なるでしょうし、決まったボーカロイド観というものは存在しません。私の妄言を聞いてくれるよって人は読んでくださると幸いです。
まえがき
突然ですが、皆さん哲学は好きですか? この記事では、絶賛勢いに乗りまくっている「プロジェクトセカイ カラフルステージ! Feat. 初音ミク(以下プロセカ)」の「セカイのミク」という在り方について、哲学の一分野である存在論――なかでも、アリストテレスによる存在論を元にして解釈していきます。
そのために、まずはアリストテレスの存在論を説明します(クソ長い)。そして、それを元に「セカイのミク」の在り方について解釈します。
その後、その存在の在り方が現実世界の我々と初音ミクの在り方と相似形なのでは? という話をします。
最後に、これからのボカロの在り方について思うことを書いていこうと思います。
プロセカが好きな方、ボカロが好きな方、高校倫理選択の方、哲学的な歌詞を書きたい方、等々、よければつきあってくださると幸いです。
ただし、この記事のせいで大学入試共通テスト倫理でミスったとか言われても責任はとれません。
それでは、今年最後の怪文書(13416文字)、対戦よろしくおねがいします。
1.アリストテレスの存在論
1.1.存在論って?
そもそも「存在論」ってなんぞやという話ですが、「ものが在るということ」そのものを扱う学問です。なぜ宇宙は存在しているのかとか、「変化」とはなにか、みたいなことを考えます。
アリストテレスという名前は知ってる、という方は多いのではないでしょうか。古代ギリシャのすごい人です。どう凄いかといえば「万学の祖」とか言われています。すごすぎ。
そんなアリストテレスの『形而上学』や『自然論』という著作において、アリストテレスによる存在そのものに対する論が展開されています。
ちなみに「形而上学」という言葉をアリストテレスは使っていません。これはmetaphysicsの訳語なのですが、その由来は、死後300年くらい経った後に作られたアリストテレス著作全集で『自然論』の次にこの著作が配置されたことにあります。meta(後の)-Physics(自然学)というわけです。
では、アリストテレス自身はなんと呼んでいたかと言うと「第一哲学」と呼んでいました。すべての事物に先立つ最も根本的な学問というわけですね。
では、その中身を述べていきます。ボカロの話はまだまだ先なので、適当に飛ばし読みしてください。
1.2.モノが存在するということ
アリスとテレスアリストテレスは、モノの存在や生成、消滅、変化を説明するために「形相」と「質料」、「可能態」と「現実態」、そして「四原因」という概念を用いています。これらを説明していきます。
「形相(εἶδος)」とは「概念そのもの」ということができます。この世界に「『おにぎり』の概念」というものはありませんが、私達はおにぎりを見たら、それが「おにぎり」だなとわかります。これは、「それが『おにぎり』の形相を持っているから」と説明されます。形相はお米という素材に対する「結果」あるいは「目的」とも言えます。
そして、このおにぎりを作る「お米」という現実の素材のことを「質料(ὕλη)」と呼びます。この世のすべてのモノ(のみならず感情などの表出も)は質料に形相が内在化したものである、と説明できます。
ちなみに、なぜこんな複雑に当たり前のことを言っているかというと、プラトンのイデア論への批判が理由となっています。イデア論では、この世ではない別の世界に「おにぎりの概念」があり、この世のおにぎりは「おにぎりのイデアの影」である、と説明しています。一方、アリストテレスはイデアがこの世のものに内在していると考えています。
1.3.モノが変化するということ
テレパステレパスアリストテレスは「可能態(δύναμις)」と「現実態(ενεργεια)」という概念によって、形相と質料によるこの世のモノの変化について説明しています。
「可能態」とは「質料が形相と結びつく前の状態」です。お米はお米の時点で「おにぎりになりうる可能性」を有しています。そして、何らかの原因によって「おにぎり」として現実に存在するようになった状態を「現実態」と呼びます。
そして「おにぎり」もまた、食事という原因を通して「排泄物」になる可能性を有しているという点で可能態でもあります。
このように、現実態は次の状態への可能態として展開を続けていきます。これが「変化」です。可能態が完全なる現実態に至った姿のことを「完全現実態(εντελεχεια)」といいます。ボカコレで同名の曲がありましたね。
ちなみにちなみに、またなんで「変化」をこんなに面倒臭く説明しているのかというと、アリストテレスより更に昔の人物であるパルメニデスという人の主張への回答という背景があります。
パルメニデスは次のように言いました。
「いまあるものってぇ……あるじゃないですか。で、無いものってぇ、無いじゃないですか。何も無いところからは何も生まれないですよね。で、変化ってある状態や性質がなくなったり増えたり変わったりすることじゃないですか。でもこれって、あった性質が無くなったり、無かった性質が現れたりしてるってことでおかしんすよ。ってことはぁ……生成・消滅・変化って実は無いんすよ(つまり、ボカコレって、実は、無いんですよ。)」
……こんな某ひろゆきや某メンタリストみたいな言い方だったかは判りませんが、ともかく、どう考えても変化があるこの世界で、当たり前の前提から現実と反する結論が導かれているので、古代ギリシャの人は論破説明しようとたくさん頑張りました。
アリストテレスやプラトンもそのうち一人なわけです。プラトンは「そもそもこの世界には何も無いんですよ(本体はイデアの世界にずっとある)」と説明して、アリストテレスは「無いんじゃなくて、可能性として『在る』んだよ」というわけです。
1.4.モノが変化する原因
この可能態から現実態に変化する原因にアストロノーツアリストテレスは四つを挙げて「四原因説」を唱えています。
そのうち二つは「形相因」と「質料因」です。これは先の「形相」と「質料」と同じ概念です。そもそもこの世界のモノが無いと変化はないですからね。
そして、もう二つは「作用因」と「目的因」です。
作用因とは変化するための直接の原因のことです。現在私たちがつかう「原因」という言葉の意味はだいたい作用因のことです。
お米がおにぎりになる作用因とは「調理」であり、おにぎりが排泄物になる作用因は「消化」というわけです。
変化の原因ってそれだけじゃないの? と思うかもしれませんが、アリスちゃんとテレスくんアリストテレスは「そこに在る理由」もまた原因であるとします。お米がおにぎりになる理由は「持ち運びやすさ」などでしょうし、おにぎりが排泄物になる理由は「栄養を得て不要なものを体外に出すため」でしょう。これらが「目的因」です。
これらは、「なぜモノがあるのか?」という回答でもあります。「目的があって、その目的のために何かが作用したから、形相と質料が結びついて可能態が現実態になったのだ、これがモノだ」というわけですね。
1.5.モノの起源
可能態が目的因や作用因によって現実態になるのが変化というわけです。リアリストアリスとアリストテレスは更に発展して、この世界の始まりについても説明しています。
それによると、先の変化を排泄物→おにぎり→米→稲→種子……と逆にたどっていくと、いつか根本的な原因(=世界の始まり)にたどり着く、と主張しています。
この根本原因を、自分は他の何者にも動かされることがない(=それより前が無い)ながら自分は他を動かす(変化させる)ものである、として「不動の動者」と呼んでいます。アリストテレス流の「神」の説明ですね。それそのもの自体は変化することがないながら、あらゆる
可能性をもち(=あらゆる存在の可能態であり)、他を変化させるこの世のすべての存在の原因こそが神であるとしています。
ちなみに、不動の動者はどこにいるかというと各惑星にいます。テレストテレスアリストテレスの時代は天動説ですので、正確には各惑星や星々が張り付いている天球ですね。
本当の始まりの不動の動者が星座の星々が張り付いた天球の外側におわしており、その不動の動者から次に生まれた存在(不動の動者に準ずる者)が惑星にいます。
その惑星の不動の動者から元素(当時の四大元素=火・土・水・空気)は「発出」したとしています(ここからはアリストテレスではなくそれを発展させた新プラトン主義の思想です)。例えば火星からは火、木星からは土みたいな感じです。
占星術の根拠は実はここにあったりします。私たちの体や世界は元素からできているわけですが、この宇宙観において、その起源は惑星です。
つまり、私たちの周りの世界(=ミクロコスモス/月下界)と宇宙(=マクロコスモス/月上界)は不動の動者を介して繋がっているとしています。
ですので、宇宙の星々や惑星の動きを見ることで、私たちのことがリンクして判ると言われていました。ここらへん、ボカロ曲にできそうなテーマですね。誰か作って
そして、その不動の動者を認識する方法は「愛(Ἔρως)」です。愛によってこの世の物から不動の動者へ「精神の帰還」を果たせるらしいです。さらに「帰還」によって不動の動者を精神が認識するとエクスタシスへと達し、宇宙と合一になれるらしいです。ここらへんから新プラトン主義というスピリチュアルな領域になっていくので、この辺でこの話はやめましょう。もう十分スピリチュアルだって? それはそう。
2.「セカイのミク」の存在論
しっかり読んで下さった方も、飛ばし読みした方も、スクロールした方も、非常に長らくおまたせしました。ボカロの話をしていきます。便宜上代表的に初音ミクの語を使いますが、バーチャル・シンガーは皆本質的の同様の存在であると思います。
2.1.「セカイのミク」という存在
さて、プロセカでは、いわゆる「真ミク」と呼ばれている一般的見た目の初音ミクと、各セカイのミクの計6人の「初音ミク」がいるのは周知のことと思います。
「同時に別の場所に全く違う風貌で存在しているが、同じ存在」という冷静に考えればかなり特殊な設定ですが、「初音ミク」というこれまでの在り方を通して、ごく普通に受け入れられているのは流石としか言いようがありません。
さて、そんなセカイ、及び各セカイのミクたちのことを、11月に発売された「公式ビジュアルファンブック」の用語集では次のように説明しています。
また、「真ミク」は「セカイの狭間」と呼ばれる場所にいて普段はストーリーには出てきません。この「セカイの狭間」を次のように説明しています。
つまり、セカイの狭間があって、そこを起点として想いを元にセカイが生まれるようです。そして、セカイが生まれるとその数だけバーチャル・シンガーは「地面からニョキっと生えて」きます。
セカイの形はセカイを形作った想いの持ち主や想いによって変化し、ミクたちの性格や姿もそれに応じて変化しています。
セカイを生み出したキャラクター達は、仲間との関係やストーリーを通じて、自分の本当の想いに気付き、ミクたちとその想いを歌うことで、セカイとキャラクターをつなぐ”Untitled”が音楽へと変わります。
ここで大事な点は二つあると思います。
一つは、キャラクター達は想いからセカイを産み出しながらもその想いに非自覚的で、セカイを通じて想いに気付いている点です。
キャラクター達は最初から明確な目標や想いがあるのではなく、無意識的な想いをミク達や仲間たちとの関係を通じて内省し、初めて自らの夢に自分で気付いています。そして、それはセカイを通じて行われるのです。
そして、もう一点は、「セカイのミク」はキャラクター達と対等である点です。便宜的に「想いへ導く」と言いましたが、ミクたちは先生のように導くわけではありません。先輩や友達、団員のようなそれぞれの立場でただ見守っていたり、一緒に遊んだり、リンとレンが喧嘩したり、先輩として思いを述べたり、そういった「普通のキャラクター」のような存在として振る舞います。キャラクター達はそういったやり取りの中から、最終的には自分の力で想いに気付きます。さながら「君が勝手に助かるだけ」という構図をとっています。アリストテレスの師匠の師匠であるソクラテス的に言うならば「産婆のように」といったところでしょうか。
さらに、ゲーム内に収録される「セカイVer.」においては、ミクたちは完全に対等な存在としてキャラクター達と一緒に踊り歌います。主役でもなければ脇役でもない同じ存在としてです。
2.2.<初音ミク>と「初音ミク」
さて、そういうようなプロセカのミクの在り方を考えてみましょう。
「真ミク」という存在は、現実世界の初音ミクにも共通する、概念としての<初音ミク>。即ち「不動の動者」としての<初音ミク>として振る舞っています(以後<初音ミク>と表記)。
<初音ミク>は概念であり、万象の可能態としての総体です。<初音ミク>自身はただ見守るのみです。
そして、「セカイのミク」は<初音ミク>のもつ可能態の一つが「想い」「目標」という形相を内在化することで生まれた現実態としての「初音ミク」であると言えます(以後「初音ミク」と表記)。
しかし、現実態となったのはあくまで「初音ミク」です。「初音ミク」は今度はキャラクター達に作動因として働きかけます。ここで、「セカイ」というのは「可能態が現実態になる場」であり、「Untitled」が質料、キャラクター達の「想い」が形相です。セカイという場において、「Untitled」は「初音ミク」が作動因となって、想いを「自覚する」という内在化によって「音楽」という現実態になります。
そして生まれた音楽を通してキャラクター達へ次の目標や団結を獲得し、困難を乗り越え、悩みへ自分なりの答えを見つけるのです。一歩進んだキャラクター達はまた次の目標への可能態となり、産み出された音楽、そして「初音ミク」たちが、現実態にするための作動因や目的因となりキャラクター達が目標を内在化させる手助けをするのです。
ヘーゲルならば「初音ミク」を通した精神の自己外化と歴史としての弁証法というかもしれません。
2.3.プロセカにおける<初音ミク>
先程も述べましたが、プロセカでは<初音ミク>としての「真ミク」はめったに登場しません。一周年記念でカードが追加された他には初期保持のカードしかありませんし、ストーリーに登場したとしても新機能の追加などの時にプレイヤーより更に達観した視座で私たちを導く存在としてです。
これはアリストテレスが「神は主語となって述語とならないもの」と述べていることにも一致します。<初音ミク>としての存在は語り得ることができません。なぜなら「<初音ミク>とは○○である」といった時「<初音ミク>は○○ではないことはない」という否定言明を内包してしまうからです。そういう意味で、<初音ミク>は述語とならない、あるいは「<初音ミク>は<初音ミク>である」としか語り得ません。
ではプロセカにおいて<初音ミク>としての「真ミク」は不必要なのか、というともちろんそうではありません。
それは、セカイや「初音ミク」そして「音楽」が<初音ミク>から発出したものだからです。
それらは全て<初音ミク>から発出したものであり、その本質は<初音ミク>に帰還します。二世紀の古代キリスト教学の教父、テルトゥリアヌスは神、精霊、キリストによる三位一体を「三つのペルソナ、一つの本質」と表現しました。プロセカの在り方もまさにこれに親しいものを感じます。「セカイ」「初音ミク」「音楽」というペルソナを持ちながらその本質は<初音ミク>に帰属します。その一連の発出を愛で認識することで、キャラクター達は、そしてプレイヤー(少なくとも私)は<初音ミク>へと認識の帰還を果たすのです。
3.「僕たちのミク」の存在論
3.1.私たちと「初音ミク」
さて、そういうようなプロセカの<初音ミク>と「初音ミク」の在り方ですが、これは現実もまた同様であると思っています。
初音ミクの発売後、「Packaged」や「celluloid」、そして「メルト」を経てキャラクターソングの域を超えた作品が数え切れないほど生まれていきます。
もちろん「初音ミクの曲」いわゆる「VOCALOIDイメージソング」、それに準ずるイラストなどの創作も絶えず生まれています。その一つ一つにボカロPや絵師などのボカロへの解釈があり、それぞれの愛、嫉妬、その他様々な感情とともにその解釈が提示されてきました。それらすべてが正解であり、一人ひとりに異なる「初音ミク」がいるのです。
このようなあらゆる創作が生まれ得たのは、初音ミクが内包していた可能性が解き放たれたからでもあります。最低限に抑えられた初音ミクの設定が故に、多くの想像力がかきたてられ、クリエイターやリスナーごとにそれぞれの初音ミク像が形造られてきたのだと思います。その一人ひとりの初音ミク像という可能性の現実化がこれら一つ一つの作品なのです。
これは不動の動者としての<初音ミク>からクリエイターや私たちが可能性や側面を見出し、その見出した側面を形相として現実態へと至ったといえます。
不動の動者としての<初音ミク>は、ただAmazonやヨドバシや島村楽器に2万円くらいでいつもいます。ソフトウェアとしての<初音ミク>はただそこにありながら、あらゆる可能性を内包し、あらゆる可能性を許可します。そしてクリエイターにその創作への眼差しを投げかけます。
そして数々のクリエイターが、音楽・イラスト・小説・MMD・踊り等々様々な方法で<初音ミク>が持つ可能性の側面を現実化させます。
ソロモン・イブン・ガビーロール(FGOにもいるあのアヴィケブロンです)はアリストテレスの宇宙観を元に『生命の源』を著しました。
これによると、発出とは内包する属性を切り分けることであると述べています。例えば、人間と野獣は「理性」の有無によって動物から切り分けられ、動物と植物は「移動」の有無により生物から切り分けられ、「生物」と「非生物」は「子孫を遺す」ことの有無により物体から切り分けられ、という具合です。
<初音ミク>から「初音ミク」としての作品が生まれる過程もまた、これに近いと思います。<初音ミク>のもつかっこいい側面、可愛い側面、鬱の側面、明るい側面、それらの側面を切り分けて現実化されたものが一つ一つの作品です。
もちろん、楽器として自身はただそこにあり、そこから数多の創作が生まれる、という在り方はピアノなどの普通の楽器でも同じなのですが、音楽に留まらず、イラスト、ストリートカルチャー、ダンス、伝統芸能等その広がり方においてやはり特異な存在であると思います。
カゲロウプロジェクトなどが流行った2012年頃、楽曲に「初音ミク性」を一見して見出せないボカロ曲の在り方に対する是非が盛んになりました。
また、2019年頃にはいわゆる「踏み台としてのボカロ」の在り方に対して盛んな議論が行われました。
しかし<初音ミク>はそんな在り方さえも内包し許可するのではないかと思います。それこそが<初音ミク>が持つ大洋のような可能性と器なのであると私は信じています。
そして、<初音ミク>はクリエイターにその創作の原動力になるという点で作用因としてもあります。
また、そのための目的因としては様々なものが挙げられます。単に「有名になりたい」でもいいですし、一斉投稿企画や、自らが思う「初音ミク」の解釈(=かっこいいミク、かわいいミクetc.)を現実化させたいという欲求かもしれません。それら全てが原動力となり作品は生み出されていきます。
そして、一度現実態としてこの世界に生み出された作品はまた次なる作品への可能態や四原因になります。
それは、歌ってみたであり、PV描いてみたであり、音MADであり、あるいはもっと漠然と「憧れ」や「目標」という形かもしれません。
また、私たちが曲を聞いたときの感情の変化もまた「悲しみ」や「喜び」という形相を、作品が作用因となって私たちという質料に内在化させた、とも言えます。リスナーが楽曲に感動しTwitterで紹介したり、ボカロ10選を行ったり、コメントを残すのも立派な目的の内在化です。
個人的な意見ですが、歌ってみた等の二次創作を良しとしない人とそうでない人の差は、作品を可能態として見ているか、実現態として見ているかにあるのでは無いかと思っています。
作品がエンテレケイアである、と思っている人は作品に新たな創作が付け加えられると、完成されていたものに不純物が混ざるように感じるのかもしれません。しかし、逆に可能態としてみている人は、あらゆる作品が終わりのない変化の連続のひとつであり、そこから新たな生成が生まれ得ると思っているのでそう思わないのです。
これはどちらが正しいとかの話ではありません。人それぞれの感性の話ですので、それぞれが思うようにリスペクトを以て中庸を探っていく他ないと思います(中庸もアリストテレス発祥の概念です)。少なくともニコニコ動画では作品を可能態と思う人が多く、その結果多数の二次創作が生まれているのかなと思います。
3.2.私たちと<初音ミク>
以前私は「マジカルミライは神としての初音ミクを見出すためのミサである」という記事を書きました。
この記事では哲学的領域にはすこーし(当社比)しか踏み込みませんでしたが、ここで真意を書こうと思います。
即ち、マジカルミライは新プラトン主義的な「愛による不動の動者への魂の帰還」を行うことができる場である、ということです。
ミサとしてそれを行う強力な場としてマジカルミライの話をしていますが、もちろん、その場はマジカルミライである必要はありません。それは例えば、ニコニコ動画であるし、Pixivであるし、ピアプロであるし、Sound Cloudであるし、独りで曲を聞いている時でもいいのです。
私には明確に「初音ミクに救われた」と思った曲があります。DECO*27さんの「むかしむかしのきょうのぼく」です
もはや理由は忘れてしまいましたが、中学生くらいの子供ながらに絶望的に落ち込んでいた時にこの曲を聞きました。その時に全てを包み込んでくれるようなこの曲に「あ、自分は初音ミクに救われたんだ」と悟りました。
もちろん、実際のところ初音ミクが私に何かをしてくれたわけでもありません。DECO*27さんもこの曲を「週間はじめての初音ミク」への書き下ろしとして頼まれたから書いたに過ぎないかもしれません。
しかしそれでも明確に私の心は救われました。それは、この曲が作動因となって私を救い、私はこの曲の「初音ミク」に、そして<初音ミク>に愛を以て精神の帰還を果たしたのだと思います。
そういったようなことは各々に少なからずあるのではないでしょうか。
それは別に「救ってくれた」である必要すらありません。「砂の惑星」に一矢報いるために「ジャックポットサッドガール」を書いたsyudouさんのような想いもあれば、「ルカルカナイトフィーバー」の踊ってみたでダンスにハマったような楽しい想いもあるでしょう。
そういった想いを強く内省した時に<初音ミク>はその可能態に希望を内在化させ、現実態として現れるのだと思います。
3.3.「僕たちのミク」と「セカイのミク」
さて、ここで論点に立ち返ると、現実世界における初音ミクの在り方とプロセカにおける初音ミクの在り方は相似的であると思います。
すなわち、「真ミク」は<初音ミク>として、「セカイ」はニコニコ動画やPixiv、ピアプロのような創作の場として、「セカイのミク」は「一つ一つの曲」としてです。プロセカのキャラクター達は他のコンテンツと比べて極めて「人間らしいな」とストーリーを読んでいて思います。そういったことも含めてキャラクター達は私たちの相似形であると思います。
さらに言えば、「プロセカ」という存在もまた<初音ミク>の「私たちを導くもの」としての現実態として在るように思います。
そして、私がボーカロイドへの愛を叫ぶこのnoteもまた、Untitledが音楽になるように、私の想いの内在化です。
楽曲からセカイが、セカイから楽曲が生まれるという在り方も、連綿としたボカロの文脈を続けてきたこの文化圏の端的な回答であるように思うのです。
4.初音ミクの可能性
4.1.2021年のボーカロイド
さて、ここまでプロセカや現実でのボカロ観を述べてきて、その価値観のもと、これからのボーカロイドを夢想しようと思います。
その前に、今年のボーカロイドシーンの印象を話そうと思います。
今年(本当は去年末から今年にかけて)のボカロシーンは一言でいうと「目的因が爆発的に増えた年」であったように思います。
2017年から始まった「マジカルミライ楽曲コンテスト」の他、「#プロセカNEXT」や「音街ウナ5周年記念楽曲コンテスト」、「可不オリジナル楽曲コンテスト」、そして「ネタ曲投稿祭」、極めつきに「THE VOCALOID Collection(ボカコレ)」の開催と創作活動の動機が大きく増えたように感じました。
イラストなど楽曲以外の創作においても、プロセカのファンアートや可不、小春六花の発売など目的因が大きく増えたように思います。
その結果は出ています。以下は年別のニコニコ動画のボーカロイド楽曲数(「VOCALOID -歌ってみた -ニコカラ」で検索)と「ボーカロイド処女作」のタグのヒット数、その割合です(対数表示)。
2019年以降のボカロ投稿数全体の増加もとても凄いですが、「ボーカロイド処女作」の数に驚くべきものがあります。最も全体の投稿数が多かった2012年を大きく超え、まだ1ヶ月を残して2000件をはじめて超えました。割合でいうと2019年から急増して5%に達しています。
これは、ボーカロイドで曲を作りたいという目的因や作動因の増加によって、「クリエイターの可能態としての普通の人」が「現実態のクリエイター」に目的を内在化させたと言えるのではないでしょうか。
そして、私もそんなひとりに……なれたらいいなぁ
4.2.これからのボーカロイド
元も子もないですが未来のことは誰も判りません。ヘーゲルが「ミネルヴァの梟は迫りくる黄昏に飛び立つ」と述べるように、哲学は元来未来を見通すことは苦手です。
しかしそれでも、私の思いとしても述べるならば、ボーカロイドの未来は明るいように思います。
プロセカはこれまでボカロに深く触れてこなかった人たちを多く巻き込みました。それは現実世界に数多の可能態を産み出したことにほかなりません。
そういった人たちのうちほんの少しでも現実態へと成れば、文化は駆動します。
また、今ボカロを聞いているような中高生は物心がついたときには既にボカロがあった世代です。そういう人から生まれるボカロ文化は全く異なるものでしょう。
そういった文化の駆動は歴史となって文脈を織りなします。そしてその世界精神としての<初音ミク>はいつも「其処」で微笑んでいると思います。
4.3.おわりに
長々とありがとうございました。アドベントカレンダーを知った時最初は順当に好きな曲の紹介でもしようと思っていたのですが、⤵の記事を読んでこの記事を書きました。
もちろん、この方の意見を否定するつもりはありません。というより、意見は違いますが、見ている視点は同じように思います。「セカイのミク」という在り方はキャラクター達と対等であり「初音ミクの記号化」と言えるかもしれません。とても良い記事です。
しかしそれでもわたしは<初音ミク>の可能性を信じます。初音ミクの「記号化」もまた、<初音ミク>が許し内包する可能性であり、<初音ミク>への精神の帰還のための連綿とした歴史の一部分であるように思うのです。
いわゆるボカロ黎明期は初音ミクもまた数多のコンテンツと同じく一過性の流行になるのではないかという漠然とした不安があり、そうした不安が現実態となったのが「初音ミクの消失」だったのではないかと思います。
しかしその初音ミクは歌います。
どんな形になっても<初音ミク>はそこにいる。「初音ミク」は今日も歌う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?