意味のないことに意味を見出そうとすることについて
「即興詩」とは一般的にはどんなものか、実は私は知らない。
でも、私は自分の作る詩のほとんどは「即興詩」だと思う。
私の「即興詩」はこんな感じ。
状況を作る(夜とか、音楽を聴くとか、酒を飲むとか、何か書き始める前の儀式のようなものなんじゃないかなと思う。)
今の感覚にちょうど良い言葉あるいは一文を出す(ぽん、と出す。まずは単語から始めることが多い。)
言葉をつなげていく(2の言葉から次々に浮かぶ言葉や文をそのまま書いていく。大抵は止まらない感じで進む。)
止める(ふっと言葉が切れたとき、あるいはこれ以上ないという感覚になったときに終わる。)
※ 3は、口の中から万国旗が次々に出てくるあのマジックみたいなやつに似てる。ただし、あのマジックは既に完成させてあるものを突っ込んで引っ張り出してるわけだから、あれと同じというわけではない。あくまでも、ただのイメージ。
※ 3と4の間で「もう一声!」という感覚になった場合、再度続きとしての1を考える。そして2へと続く。
こんな感じでできた詩のようなものを「即興詩」と呼ぶことにしている。後から読み返すと、意味がわからない箇所が多い。だけど表現や言葉の雰囲気などが気に入っていたら、そのまま完成としている。
さて、そのできあがった「即興詩」について。後付けで意味を考えることはもちろんある。なんとなく、何か一本の筋が見えることもある。「即興詩に意味を探す行為」は、ついやりたくなるし、ついやってしまう行為だ。でもこの行為に、それこそ意味などあるのだろうか。
意味がなんとなくでも通ると、安心が生まれる。ああ、これ、それなりにちゃんと「詩」だなとか、ああ、私おかしいわけじゃないなとか、ああ、これなら外に出してもいいかなとか。本当に、意味のない安心だ。
そもそも作っている時に意味を排除して作っているんだから、後から意味を見出そうとする行為はなんか変な感じがする。それを作っていた私は、それを望んでいるのか?
そもそも、意味がある、意味がないとはなんだろう。
意味は時に「価値」という意味で使われることがある。
意味を探すという行為は、自分の作品に価値があるかどうか確かめようとしている行為でもあるのではないか。
「意味がない」で終わったとき、その作品、つまりその作品を生み出した自分についても「価値がない」と感じるのかもしれない。
自分の生み出した作品について「それは自分だ」と思いすぎなのだろう。
いや、それってダメなことなのかね?
まあいいよね。言葉はとても自分に近い。私の場合。
だからこうやって、意味を探したり、探すことについて考えたり、意味を排除しようとしたり、言葉と格闘しているのだな。
なんとなく腑に落ちたから、寝る。
おやすみ、世界。