見出し画像

「鮨」岡本かの子

………………
 その翌日であった。母親は青葉の映りの濃く射す縁側へ新しい茣蓙を敷き、俎板だの包丁だの水桶だの蠅帳だの持ち出した。それもみな買い立ての真新しいものだった。
 母親は自分と俎板を距てた向う側に子供を坐らせた。子供の前には膳の上に一つの皿を置いた。
母親は、腕捲りして、薔薇いろの掌を差出して手品師のように、手の裏表を返して子供に見せた。それからその手を言葉と共に調子づけて擦りながら云った。
「よくご覧、使う道具は、みんな新しいものだよ。それから拵える人は、おまえさんの母さんだよ。手はこんなにもよくきれいに洗ってあるよ。判ったかい。判ったら、さ、そこでーー」
 母親は、鉢の中で炊きさました飯に酢を混ぜた。母親も子供もこんこん噎(む)せた。
……………
「ほら、鮨だよ、おすしだよ。手々で、じかに摑んで喰べてもいいのだよ」
 子供は、その通りにした。はだかの肌をするする撫でられるような頃合いの酸味に、飯と、玉子のあまみがほろほろに交ったあじわいがちょうど舌いっぱいに乗った具合ーーそれをひとつ喰べてしまうと体を母に拠(よ)りつけたいほど、おいしさと、親しさが、ぬくめた香湯のように子供の身のうちに湧いた。
 子供はおいしいと云うのが、きまり悪いので、ただ、にいっと笑って、母の顔を見上げた。
……………
 そう気づくと、子供は、はじめて、生きているものを嚙み殺したような征服と新鮮を感じ、あたりを広く見廻したい歓びを感じた。むずむずする両方の脇腹を、同じような歓びで、じっとしていられない手の指で摑み搔いた。
「ひ ひ ひ ひ ひ」
無暗に疳高(かんだか)に子供は笑った。母親は、勝利は自分のものだと見てとると、指についた飯粒を、ひとつひとつ払い落したりしてから、わざと落ちついて蠅帳のなかを子供に見せぬように覗いて云った。
「さあ、こんどは、何にしようかね……はてね……まだあるかしらん……」
子供は焦立って絶叫する。
「すし!すし」
……………

岡本かの子 ちくま日本文学037  より 


新しいものには臆病で、何度も繰り返し同じものを読みます。この「鮨」もその一つ。何度も読むし、ことあるごとに思い出す、そんな小説です。全体的に明るい調子ではありませんが、ここだけ曇りのない光で溢れているような印象です。

本の情報
「岡本かの子 ちくま日本文学037』
2009年7月10日 第一版発行
著者 岡本かの子
発行所 筑摩書房
装丁者 安野光雅

2024/10/30
古本 天栖土食虫 あますみかつちはむむし

いいなと思ったら応援しよう!