プレキシ、謎めいたまま[9]
放課後、ヒルは僕の席まで来ると、怒っているような低い声で僕についてくるように言った。
僕たちは校舎の裏手に回って、ヒルと花の種を蒔いたことのあるあの石造りの花壇まできた。ヒルはいつもの緑のじょうろを下げていた、ーーただ、そこにまだ水を汲んでいなかったのを、僕は知っていた。ヒルは花壇のなかにいつのまにか色とりどりに植わっている種々の花を見ながら、
「恋人になるってどういう意味?」
と僕に聞いた。
僕は上手く答えることができなくて、ただ黙っていた。
「なんで黙ってるの?」
「上手く答えられないから」
「私、そんなに難しいこと、聞いてるかな」
「そんなことないと思う」
「私と、ーー」ヒルは両手から下げている空のじょうろと、同じ方向に髪も袖も引きずられていた。「……なにかしたいことがあるの?」
「〈なにか〉?」
「そう」
僕はしばらく答えなかった。
「それもわからないの?」とヒルは笑った。
「ないわけじゃないと思う」
「それ、なに?」
「……ごめん」
「なんで謝るの?」
「その、……ごめん、…….でも、たぶん仲良くなりたいんだと思う」
「〈仲良くなりたい〉?」
「そう」
「どうして?」
僕は答えられなかった。〈それ〉……ヒルとなんらかの意味で仲良くなりたいという気持ちは、いつの間にか僕にとって根源的な欲望に変わっていた。なぜ彼女と仲良くなりたいのだろうか? ヒルが仄めかしているのは、……しかし、今、もうずっと歳を重ねてから改めて考えれば、僕がヒルに求めていたことは単純な、たったひとつのことだった。僕は彼女に助けて欲しかった。
「ヒル、……」
「なに?」
僕はまだ黙っていた。厳しく頑なだった彼女の雰囲気が、だんだんと和らいでいった。それで僕はもう望みがないのがわかった。彼女はじょうろをさげたまま、木陰へと歩いて行った。僕はついて行った。木の影にからだをすべて沈めた時、彼女は振り返って、
「ただ仲良くなりたいだけなら、別に付き合わなくてもいいんじゃない」
と笑った。
この時、ヒルが僕に向けてくれた優しさが、どういう類のものだったのか、本当の意味ではわからない。ただこの一件があってから、ヒルは間違いなく僕にすごくやさしくなった。それまではずっと僕になにか警戒心のようなものを持っているみたいだったが、たぶん僕が彼女に告白して、かといって特別詰め寄るようなこともしなかったから、怯えるようなきもちはなくなったのだろう。しかし、僕は反対に、彼女が僕に優しくしてくれるたびに、彼女が自分から離れて行ってしまうように感じた。彼女を、いわゆる比喩的な意味でいうところの、〈手に入れる〉ことができなくなっていくようだった。僕たちは仲良くなった。僕たちは顔を合わせれば必ず何か話をしたし、世にいわゆるデートなるものとして月に一、二回二人で出かけていったり、放課後からかなり夜遅くまで一緒にいてずっと話をしていることもあった。そんなふうにして次々と叶えられていく僕の表面上の望みのために、もうひとつの本当の僕の望みはみるみるうちに叶えられなくなっていくようだった。僕は彼女とのことをどうしたかったのだろう。こんなふうに仲良くなるよりは、以前のように嫌われていたほうがまだましだったような気がした、ーーなんとなれば、恋人になってありきたりな、平和な恋愛関係に落ち着くより、たとえば、僕が彼女をひどく傷つけるかなにかして、永遠に憎まれている方が僕の理想に近いような気がした、……僕は救ってほしかった。でも彼女は僕に救われて欲しくなんてなかった……(彼女は僕に、ずっと一人でいて欲しかった)。
記憶を失った90歳の女の小説は、ちょうど秋の始めが終わったころ、完成した。ひとつの物語が終わることは、ひとつの感情が終わることでもある。ひとつの複雑な、紐解くことのできない、複雑な、絡み合った、折れ曲がった感情。……コンプレックスcomplex. 〈-plex〉は折れ曲がったものを意味し、com-plexで一緒になって折れ曲がったもの、折れ曲がって一体となってしまっているものを意味する(re-plyは〈折り返したもの〉すなわち返信であり、sim-pleは〈ひとつ折りのもの〉すなわち単純なものを意味する)。しかし、私たちの日常におけるカタカナ語では、〈コンプレックス〉とは単純に劣等感を感じているものほどの意味でしかない。「私は自分の鼻がコンプレックスなんだ」と言うとき、それはその人にとって自身の鼻が気に食わないという意味であって、何か複雑な感情の姿がそこに意味されているわけではない、……例えば、その〈鼻〉それ自体、あるいはその〈鼻〉を嫌っている自分、その鼻と自分と他者との間の三角関係に、愛着が見出されない限り、……だから芥川の書いた〈鼻〉は、的確にコンプレックスのなんたるかを表現している。自分がどうしてもリジェクトしたい自己の部分が、他者から愛される外的条件になること、……〈救い〉。僕は自分の書いたその作品を、約束通りヒルに見せた。
[続く]
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