プレキシ、謎めいたまま[10]
ヒルは渡したものを十日で読んできて、昼休み、封筒に入れた僕の原稿を僕の机の上において返しながら、「上手だね」と言った。「よかったよ。売ってる本みたいな文章だった。……ニシノくんは、小説家になるの?」
「別に、そういうつもりはないけど」
「なってよ。なってほしいな」ヒルは、誰にも聞かれないようにひどく小さな声で、そう言った。「かっこいいじゃん」
僕は今まで、職業的作家になりたいと思ったことはなかった(『今』とここで書くのは、実際に職業的作家になった今という意味で、つまり人生で一度もないということだ)、……小説を書き続けているのは、結局、書き始めたものを最後まで書かないことの不自然さに耐えられないからだった、……書くことは感情からはじまる。そして感情を拒むことはできない。だから、書くことは僕自身の意思とはまったく別のところから開始し、僕はそれを中絶することの不自然に耐えられないナチュラリストというわけなのだ。……あるいは、書くことは心を減らすこと、感情の瀉血にすぎない。僕は、……少しでも楽になりたいから書いている、……職業上のモラルなんてかけらほどもない。
ただ、それがモラルによってであっても、あるいは愚かな〈民間療法〉によってなされるのであっても、書くことと書き続けることの間には明確にして大きな隔たりがあって、それが彼のライフと彼のライフワークの間にある距離でもある。だから、……僕は小説家と呼ばれるべきなのかもしれない(ヒルがかつてそう望んだように)。
特別な手法、特別な意思だけが、本当の文学の礎になっている。その意味で、僕は望みなく平凡であって、僕の書くことはなににもならない。
ヒルに見せたあと、あの国語の教師に自分の書いたものを提出したのだけれど、彼は特に僕になにか言うことなく、ただ、他の課題を受け取るときと同じようにだまってそれを受領し、それは選択クラスのその期の文集に編まれるはずだった。ただ彼は、「これは長すぎるから」と言って、別の、もっと短い、簡単な作品を改めて書くように僕に言った。三年間かけて書き上げた作品に発表の機会がないことは、それこそ不自然で、受け入れ難いことのようにも感じたけれど、だいたいにしてそれが人に読まれても、読まれなくても、別にどちらでも構わないような、興味を持てないような気がしたから、僕は改めて彼の言う通り小説を一編書いて、それが文集に載った。ヒルの作品のひとつ後ろだった。ヒルはその時、かなり長い詩を書いていたと思う。ーー悪くなかった、……言っている意味は全く不明瞭だったが、描写的で、物語がなく、空虚で、読んでも読まなくても何も変わらないような詩行が続いた。でも祈りとはそういうものなのだ。
教師は最後の授業で(選択クラスは、受験に備える都合上、かなり前倒しになって終わり、そのコマは別の科目にすげかえられたのだけれど)みんなに文集を三冊ずつ配ると、印象にも残らないようなありきたりなねぎらいの言葉をいって、みんなを解散させた、……しかし自分自身はいつまでたっても席から離れなかった。僕は不思議に思って、一度図書室を出てから、ーーみんなの遠ざかる背を見送って、もういちど図書室に戻ってみた。すると教師は、机の上に紙束と本を置いて、頬杖をついてこちらをぼんやり見ながら何か考え事をしていた。
「先生?」
教師は答えないまま、ずっとこちらを見続けていた。無視しているわけではなかった、……何か僕に、……僕のことについて考えているのは、確からしかった。僕は彼に近づいて行った。ーー机の上に置いてあるのは、僕が書いた長い小説のタイプ原稿であり、その横に置いてあるのは本屋に並んでいるような文芸雑誌のひとつだった。
「先生」
「どうするか」
「どうって?」
教師はまだ頬杖をしながら、ぼんやり僕をみて、どうするか考えているみたいだった。
「これ、先生が作ってくれたんですか?」と僕は聞いて、原稿を持ち上げた。
「誤字脱字は直したよ。そのまま封筒に入れて、投稿してみてもいい」
僕は教師を見つめかえした。彼の考えていることがまったくわからなかった。ーーつまり、僕の書いたものをある意味で評価しているから、こんなふうにお膳立てをしてくれたのだろうけれど、でもそれにしては、ことここに至ってなにか迷っているか、あるいは決めあぐねているように見えるからだった。
「その、ーーなにかまずいことがありましたか?」
「いや、そういうことじゃないよ」と教師は言って、頬杖をやめてそのまま頭を撫で始めた。「ただ、ーーいい作品だなと思ってさ」
僕はそれを言葉通りに受け取らなかったので、彼が用意してくれたタイプ原稿と雑誌をその場では受け取ったけれど、それを家において、しばらくそのままにしていた。ある日、彼の好意を思い出して、とりあえずもう一度読み直してみようと原稿と雑誌を改めて引っ張り出したら、投稿の期限はその二日前に切れていた。
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