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プレキシ、謎めいたまま[2]

 彼女が自分の死へと続くライヴストリームで仮想的バイクのアクセルをふかしていたとき、……彼女がちょうど死のうとしていたとき、僕は駅前にいて、人生で初めて知らない女の子に声をかけていた。〈ナンパ〉という言葉がまだ使われているのか、そういう活動に勤しんでいる男たちがまだいるのか、僕は知らない(猟色は現場を現実からSNSに移しているようにも思われる……。)。僕は〈ナンパ〉しようと思ってこそ駅前くんだりまで二十分かけて歩いてきたというわけではなくて、ただ四回もヒルに告白することになった自分の運命が呪わしく、とにかく外にでて、明るい方、人のいる方へ歩いていったら、いつの間にか駅前まで歩いてきていたのだった。五月の夕方は紅茶の澱みのような有機的な赤い色の空をしていた。僕はペデストリアンデッキを上がって駅の構内に入って行った、……そしてヒルに言われたことを永遠と頭のなかで反芻していた。彼女が僕に投げかけた命題は、僕の頭蓋骨の右の果てまでいくとこつんと音を立てて反射し、またずっと左の果てまでいってまた跳ね返った、……。

「だってさ、もう私と君とじゃ人間が違うでしょ?」
「人間が違うって、どういう……」
「いや、なにもかも違うじゃん。中身とか」
「中身が違って、何も悪いことなんてない」
「上手くいかないよ、絶対。それに私、忙しいしさあ」と言うとヒルは細い、銀色に光る腕時計を外してそれを腕のうえでくるくる回しはじめた。
「試してみたこともないのに?」
「試したじゃん」
「真剣に?」
「うっぜえなあ……」ヒルは頭を抱えるようにして自分の長い髪を両手で掴んだ。「真剣に試してんだんだろがよ」
「なんて?」
「うざいって言ってんの」
 僕としては特に弁明もなかった。「それはごめん」
「試すって、君ね……君、それで、じゃあね、……君だって試してみたらいいじゃんか」
「何を?」
「他の女の子」

 しかし、ヒルとの間にそういうやりとりがあったことと、僕が駅前でうっかり女の子に声をかけてしまったこととは多分ぜんぜん関係がなくて、そうしたことが起こったのは、彼女がめちゃくちゃ美人だったことと、僕の精神の犯罪的傾向が複合的に作用した結果だったろうと思う。

 ヒルの美しい心が少しずつ堕落していったことと、僕が駅前で声をかけた女の子がめちゃくちゃ美人だったこと、それに僕の精神の犯罪的傾向について、いったいどれから話していけばいいのだろう? いったいどういう順番で話していったら、過不足なく、よくできた一筆書きみたいに、なにも余す所なく語りつくすことができるだろう。僕はこれを書き始める前は、僕の身に起きたことはなにもかも明白で、こんなのは簡単に書けるんだと思っていた。でももう望みはない。ヒルとあの女の子と僕との間で起こったこと……あの十時間の間に起こったことは、この三つの要素の成り立ちをあらかじめ知っておかなくては、正しく理解できないだろうと思う。それは前もって行儀良く、一列に整理されて、時間をかけてゆっくり僕の前に順繰りに現れてきたから、準備が終わっていた僕はあの十時間に起きたことの意味を完全に理解できた。でも僕には、あの十時間の出来事をここに書く前に、あらかじめその予備的知識を書き添えておくなんて気の利くことはできそうにない。なぜなら僕はあの十時間のやっと一番最後になって、自分は必要なことは本当はなにもかももう知っていたのだということを理解したから……僕はあの十時間の出来事を経験することで、やっと自分が何もかももう理解しているのだということを理解したから、僕は十時間の出来事を書くことでしか、僕が理解したことについて書くすべがない。

 とはいえ、あの十時間の出来事以外のことを書こうと思えば、僕はもちろんいくらでも書くことができる……(事実、僕は先ほど自分の子供時代の記憶を書いたばかりだ……)。でもそうした付加的な知識を書けば書くほど、この文章が表現するものが僕のあの時の純粋な理解から離れていってしまうだろうから、僕は今書くことができないと感じている、……。いまこんなふうに言い訳じみたことを書くことそれ自体が、僕の理解の純粋性を汚している。僕が理解したものを、死んでいくヒルを目の前にして僕が理解したものをそのまま残そうとして、逆にそれから遠ざかっていってしまう……。でももうこれだけ言い訳をすれば、……そうではなくて、僕はこういうことがあった場合、それを書かないということができないから、他に選択肢がないということなのだ。

 そしてこういう思考の巡り方は、僕が自分の精神を〈犯罪的〉だと感じる理由のひとつになっている。僕のすることに理由なんてない(僕があの時、あの女の子に声をかけたことに、〈彼女がめちゃくちゃ美人だった〉というセンシュアルな理由以上のものはない)。ただ僕はいくらでも、自分のしたことについて、それらしい理由を考えついて、それを自分でも信じて、いつかそれが自分の発明だったということを忘れているのだった。

[続く]

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