プレキシ、謎めいたまま[5]

 なぜなら本当の祈りというのは、アウグスティヌスの祈りがそうだったように、あらゆる不在の痕跡に囲まれて、なお存在している可能性へと宛てられるものであるだろうから、(……彼女自身の心それ自体が、自分にとって神さまなどいないということを重々承知のうえで、本を読んで何かを感じたり、考えたりして、すがるような気持ちになったのなら)……殉教者の祈りが本当に純粋なものになるのは、くべられた火が彼の最後の神経を焼き切るその瞬間であるだろうと、思われるからだ。ただ実際には彼女は自分の十字架と聖書のために殉教することにはならなかった。彼女はそれ以来十字架を首に下げて学校に来るなんてことはしなかったし、休み時間のたびに聖書を読むのも、たぶん三分の一も読み終わらないまま、やめた。やがて新しい噂が流れた。ヒルがあちらで通っていたのは実はキリスト教系の学校で、十字架を持っていたのも、聖書を読んでいたのも、ただあちらでの習慣がなんとなく抜けきらなかっただけであって、それはなんら彼女の人格の問題ではないのだと、誰ともなく言い始めてそれがいつのまにかみんなの考えになった。そしてこのことは、多分事実だった。というのは、ヒルは転校してからその週末までの二日間、前の学校の制服を着て僕たちのところに来ていてそれが僕たちのものと形のつくりがちがうことを誰もが覚えていたのだが、あるとき誰かが、ヒルがここから来たであろうらしい学校のパンフレットを持ってきて、それを周りの生徒と一緒に確かめ、確かにヒルがあのとき来ていた制服はここのものだから、やはりヒルはここから転校してきていて、だから十字架と聖書はいわば学校のせいだったのだということになったのだった。僕はそのパンフレットを見たわけではないし、そのパンフレットを持ってきたのか誰なのか、みんなで確かめたという出来事がいつ起こったのか、詳しいことは全くわからない。ただ彼女が多分その学校の生徒だったのだろうということは、僕は個人的な経緯からほとんど確信している。僕とヒルは別々の高校に行って、またふとしたきっかけで知り合うことになったのだが、そのとき彼女が着ていた制服は、中学生のとき、転校してきたときと同じ形のものだった、……その学校はいわゆる中高一貫教育の学校で、つまり彼女は高校に入ると同時に〈古巣に戻った〉ということなのだろう。古巣から古巣へ、過去から別の過去へ。とすればやっぱり、いじめられて逃げてきたなんていうのはほんとうにただの憶測に過ぎなくて、彼女はその都会の学校が気に入っていて、できればずっとそこにいたかったのに、何かやむを得ない事情があって一旦こちらに戻ってきていたんだろう。

 僕は祈ることについて考えた。中学生のときの僕のヒルへの関心は、彼女の大人びていく見た目と、十字架と聖書を失ってからもきっと続いている彼女の祈りに向けられていて、それ以外に彼女のことでどうこう考えることはなかった。僕にとって彼女は第一に祈っている人だった。

 ヒルが祈らないではいられないのはみんなにいじめられているからなのに、ヒルがまだ祈り続けているからという理由でみんなヒルをいじめるのをやめないという状況に僕は強く心を動かされていた。そういうことを考えると、僕はヒルが僕たちのなかで唯一特別な存在であるような気がした。梃子かあるいは秤の支点に一人挟まって、みんなの気持ちが行き来するたびに苦しまなくてはいけない唯一の存在。

 手荒い歓迎の儀式を通り過ぎたあと、ヒルはみんなが了解している彼女の状況に従って、以前の習慣はもう完全に忘れて、ここでの生活にすっかり慣れ切っているかのように生活していたが、僕はずっと、神様を信じているのか、学校にいない時は十字架を身につけて聖書を読んでいるのか、まだじっと目を閉じて何か祈ることがあるのか聞いてみたかった。というのも彼女はほんとうに、多分一月もしないうちに、まったく普通の女の子と同じように見えていたから。でもたぶん違うんだと僕は思っていた。たぶんこの人は、みんなとは違って、心から〈救われたい〉と思っているんだ、……だから同じように救われたいと思って書かれた本を読んでみたり、十字架を首にかけたりしていたんだ、……。

 この時僕がヒルのなかにあるだろうと考えていた『救われたいという気持ち』については、たぶんすごく長い注釈をつけなくては、理解してもらえないと思う。そして僕はその注釈を書くことはできない。……でも思い切ったことを言えば、いじめられているときは誰でも救われたいと考えているだろうが、それで転校したいとかもう死んでしまいたいと考えることと、聖書を書こうと考えることとの間には、想像することのできないような隔たりがあると、その時僕は感じていたし、いまでもほとんど同じように考えている。僕はその隔たりに興味があった。何が僕や僕たちと、ヒルを隔てているのか知りたかった。ヒルにはわかっているのか聞いてみたかった。

[続]

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?