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ミスチルとともに「大人」になれたのか。

誕生日(19日)を迎える9月が始まった。恥ずかしながら、あと少しで35歳になる。巷では歳を重ねるたび「その実感が薄れていく」と言われるが、それとは裏腹に「歳を重ねる感慨」は一段と深くなっていく気がしてやまない。

幼い頃、もはや生まれつきと思っているネガティブな思考ゆえに、夭折や早死をテーマにしたドキュメンタリーや映画を見るたび、遅かれ早かれ「自分にも襲いかかってくる」と思い、しばしば眠れなくなったことを覚えている。それを思えば、35歳となる自分に「よくここまで生きた」と感心する一方、相変わらずの思考回路で「あと半分の時間を生きれば70歳か」と考えをめぐらせ、ひどく落ち込んだりする。

結局のところ、底知れぬ感慨の正体は「これまでの時間とこれからの時間の狭間で生じる矛盾」が年々、大きくなっているからなのではないかと思う。(念のため記すと、持病は「頭痛持ち」くらいで、これまで重大な病気にかかったこともなければ、それ以外の持病もない。)

さて、またひとつ歳を重ねる瞬間が近づいてきたからか、最近は久々にMr.Children、ミスチルを聴いている。直接会った人はわかると思うが、わたしは「チルオタ」という言葉が登場とする前からミスチルのファンで、具体的には小学6年(2000年)から高校2年(2004年)までの4年間、毎日のように彼らの曲を聞き続けてきた。ちょうどこの4年間は、ミスチルが作風を「ロックからポップ」へと大きく変える時期で、『It's a Wonderful World(2002年)』はその象徴といえよう。

その後、ポップ志向はさらに徹底され、気がつけば「笑顔でポップソングを歌う人たち」になっていた。それまでのロック志向なミスチルが好きだったわたしは、徐々に洋楽にシフトしていった。また、こうした楽曲の変化とパラレルに、歌詞もそれまでの皮肉や毒があるものから、平板で素朴なものへと変わる。このときのミスチルの楽曲は、誤解を恐れずにいえば「お涙頂戴」のようにしか思えなくなってしまったのである。

それでも、多感な時期の4年間に聴き込んだ彼らの曲(デビューからおよそ2004年頃までのもの)は、いわゆる中二病的な屈折や歪みをどこまでも肯定してれるもので、幸か不幸か、その当時だけではなく、いまにいたるまで自分を支えている。だからこそ「決別」と思っても、結局は離れたり近づいたりを繰り返して、聞き続けているのだ。

ところで、ミスチルの桜井さんは1970年生まれということもあって「〇〇歳の頃に〇〇の曲を書いた」という変換がしやすい。こうした思考をわたしは勝手に「桜井さん年表」と呼び、時おり、自分と結びつけて考えている。例えば「『Innocent World』は1994年の曲なので、桜井さんが24歳のとき。自分の24歳は?」といった具合に。もっとも、天才の彼に、凡才のわたしを重ねることが、ナンセンス極まりないものであることは言うまでもない。ただそうはいっても、「自我の確立」に決定的な影響を与えたミスチルの曲は、良かれ悪しかれ、わたしにとっての「基準」として、これまでも、いまも、そしてこれからも成りうる存在なのである。

次の一節は『HERO(2002年)』からの引用である。

残酷に過ぎる時間の中で きっと十分に僕も
大人になったんだ
悲しくはない 切なさもない
ただこうして繰り返されてきたことが
そう繰り返していくことが
嬉しい 愛しい

「年表」に照らせば、これは桜井さんが32歳のときに書かれた曲。いまあらためて聴いてみると、率直に「32歳にして、よくここまで日常を肯定する歌詞が書けるものだ」と思う。自らを顧みれば、32歳の頃はおろか、35歳になるいまでも共感ができないどころか、もはや達観してさえみえてしまう。もちろん、この曲が「父と子」をテーマにしたものであることは知っている。ただ、それを踏まえてもなお「32歳の桜井和寿」は、いまの自分のはるか「先」を進んでいる。言い換えれば「大人」だ。

だからといって、自分が「先」に進みたいかと、あるいは「大人」になりたいかと問われれば、素直に頷くことは難しい。こうした感覚が「コロナ禍」を通じて、いっそう強化されたことは否めない。でも、仮にそれがなくとも、やっぱり「先」や「大人」といったものに反抗したくなる気持ちは、こころのどこかに宿っていて、時に、それを隠しきれなくなる。

次は『名もなき詩(1996年)』の一節を。

あるがままの心で生きようと願うから
人はまた傷ついてゆく
知らぬ間に築いていた
自分らしさの檻の中で
もがいているなら誰だってそう
僕だってそうなんだ

「大人らしさ」ではなく「自分らしさ」とするところが、天才と凡才の違いなのかもしれない。それはともあれ、いまのわたしは「32歳の桜井和寿」よりも「26歳の桜井和寿」に、強くつよく共感を覚える。

書いているうちに、尊敬する大学の先生が「大人になるとは「諦念」を抱くこと」と言っていたことを思い出した。これを桜井さん風に言い換えれば「残酷に過ぎる時間の中」で「繰り返され」ることを無条件に肯定することなのだろう。仮にそれが「大人」だとすれば、35歳もまた「自分らしさ」と苦闘する時間が続きそうだ。

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