映画『366日』のネタバレしかない感想

今作脚本家による小説『366日』を読めば、より深く理解できるらしいのだが、敢えて読む前の感想を記録しておく。

泣ける恋愛映画、と言ってしまえば陳腐に感じる。

すれ違いからうまれるドラマは現実でもよくあること。生きていれば後悔の一つや二つは誰しもあるだろうし、取り返しのつかない過去の決断がいつまでも心に引っかかっている人もいるだろう。それでも前を向いて歩いていくために「あれはあれで良かったんだ」と納得して生きるためにはどうすればいいのだろうと、改めて考えさせられる映画だった。

湊が作る音楽を待っていた人たち

病床の母と湊のシーン、息子の聴いていた曲をイヤホンで共有し、あぁと頷く母の表情に親子の生活の中に音楽があったことが伺える。湊が作った曲を聴ける日が楽しみだと微笑む母の夢を叶えたいと、彼は思っていたに違いない。だからこそ母を亡くした喪失感が計り知れない。
「いつか湊先輩の作った歌を聴かせてください」
卒業式後の浜辺で美海から言われた湊。すでに美海に愛情をもっていたであろうがさらに大切な、特別な存在になった瞬間に見えた。
のちに二人は別れることになるのだが、それでも湊は美海に約束の歌を届けに行く。理由はどうあれ三年前に自分から突き放しておいてあんまりじゃないかとの印象もあるだろうが、自分の歌を手渡すこと自体が湊の人生には重要なことだったことだろう。

出会うことが必然な意味

今作に限らずフィクション作品のなかでは、たまたまそこに(うまい具合に)居合わせることで動く物語がある。そんな偶然について考えるとき、果たして現実では有り得ないことだろうか、寧ろ現実社会でもうまい具合の偶然が存在し人生の岐路が定まることって意外とあるのではないかと思う。
琉晴から美海が妊娠していた事実を知らされ、このまま帰ってくれと言われた後に浜辺に赴いた湊は美海と出会うことがなかった(ように見えた)。
ここで会えないということは、二人の人生はもう交わることがない運命なのだと解釈した。

しかし実際は出会っていた。
美海から湊へ送ったMDを琉晴が盗んだことにより届かなかったメッセージ(そのことを悔い続けた琉晴の誠実さと切なさよ!)は、この一瞬の出来事で伝わっていたという種明かしは観ている私たちも温かい気持ちになれた。湊と美海はここで初めてちゃんと別れることが出来たのだ。

「自分の好きなものを忘れてはだめだよ」
美海の幸せを願い立ち去る決意をしたはずの湊が初めて自分の心に素直になる。気持ちの赴くままに結婚式場に駆けて行った湊だったが、幸せに溢れ賑やかな披露宴の中で彼の姿をみとめたのは幼い陽葵だけだった。湊と陽葵、言葉がなくても微笑みを交わすことで改めて想いに決着をつけた。
もう二度と美海と出会うことはない、そういう巡り合わせ。

寄り添いたい想い

12年後、美海の病を知った湊はどう思っただろうか。傍に行きたい、支えたいと心から思ったに違いない。本当に大切な人だから。
しかし、その大切な人を自ら手放したのは湊。美海が大事だから、幸せにしてあげたいと思うたった一人の人だからこそ突き放してしまった今、寄り添いたいという想いは叶うことがない。
「お母さんが本当に傍にいてほしい人は僕じゃないよ」
自分が闘病中、死の恐怖と心細さの支えは思い出のMDだった。人より辛い経験が多い湊だから、今の美海に必要な人が誰であるのか分かる。
もう、自分ではない。


これから湊はどんな人生を歩むだろうか。
いつかまた、愛する人に出会えるだろうか。
音楽の仕事を続けながら東京で暮らしていくだろうが、たまには沖縄に帰って誰かに会ったり会わなかったり、そんな日々も過ごして欲しいと思わずにいられない。

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