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音楽的センスは生まれつきだけで決まるのか?

先日とあるYoutube配信を観ていて、「メロディセンスは生まれつきの才能か?」という話題が出て興味深いなと思いました。

センスに対する自分なりの考え方や定義については以前の記事で提示しました。

個人的には、センスは先天的要素があるものの後天的に伸ばすことも出来るものだと考えています。

ハイキューという漫画には「才能は開花させるもの センスは磨くもの」という台詞があり、作品自体は未読ですがこの台詞だけは印象に残っていて同意出来るなと感じています。

才能やセンスについては「原石」と「ベクトル」でイメージを持っていて、石の尖り方・尖っている方向や長さ、あるいは光り方・光っている向きや光る強さ、という感じに捉えています。

つまり、たまたま生まれつき特定の方向に強く尖って光る石として生まれてきて、それがたまたま多くの人にウケる向きだった、というのが先天的センスで、研磨してより強く尖らせたり光らせたり向きを調整したりしていくのが後天的センス、という考え方です。

なので先天的センスというあらかじめ土台を持った上で更に後天的センスを磨いていくような「努力出来る天才」が強くて、そういう人たちがその分野の一流の最前線を突っ走っているのだと思います。

これらのことから、センスには良し悪し(良い方向・悪い方向)という絶対的な評価は無くて、より多くの人に刺さる方向もあれば特定の人に刺さる方向もあって、後はその刺さる度合いや向きの調整をどれだけ磨いていくかが重要なのかなと思います。


メロディセンスの話に戻ると、より多くの人に深く刺さるようなメロディを作るには、最初からその感性が高い人こそいるものの、最初はヘンテコなメロディしか作れなかったけれど作品数を重ねていくうちに洗練されていくものでもあります。

かつてニコニコ動画で「中二の俺がスーパーマリオブラザーズを頑張って耳コピしてみた」という動画を投稿して、当時あまりにもデタラメな不協和音だらけで笑われていた黒魔さんという作曲家さんがいるのですが、
ひたすら曲数を重ねていった(年100曲作ったことも)結果今では一流のアーティストとして数多くの楽曲を制作しているプロになっています。

また、音楽的なセンスについて調べると、音感・リズム感・(感性としての)耳の良さ等が挙げられますが、いずれも生まれつき優れている人はいるものの後天的にも習得可能なものです。
絶対音感については難しいものの、相対音感は耳コピ等で鍛えれば身につきます(自分がそうだったので)。

なので音楽的な知識や技術を学ぶことや色々な曲を聴いて分析すること、それらをフィードバックして楽曲制作することが研磨剤となって、その人のセンスという原石が磨かれていくのだと思います。


また、センスの向きは変化し得るものだとも考えていて、聴いている音楽が変わったり作品数を重ねていく過程だったりで作る音楽の向きも変わっていくものです。

自分が初期の頃に作った曲は以下のとおりなのですが、それまでゲームミュージックばかり聴いていたのでゲームミュージック的(ロマサガっぽさを意識した)曲調になっています。
というかBメロが四魔貴族バトル1にあるフレーズまんまです。

その後はボカロ曲、デジタルJ-POP、EDM系の曲を多く聴くようになって、初期の頃のような曲調は全然作れる気がしなくなりました。

こういうセンスの変遷は割と不可逆的に感じるので、「このアーティストは初期の頃の曲調が好きだったな、またそういう方向で作ってくれないかな」というのは結構酷なことな気がします。


何だか言いたいことがよく分からない感じになりましたが、タイトルの質問は結局のところ、「最初から生まれつきの才能やセンスで全て決まるなら凡人が努力する意味は無い(だから努力したくない)」という「やらない理由探し」という感じがします。

こういうことを言うとめちゃくちゃ老害という感じがするのであまり言いたくないですが、今の時代はタイパ(タイムパフォーマンス)という価値観が重視されていたり、若い世代ほど極端にリスクを恐れる傾向にあったり(失敗が許されづらい社会なせいもある)、「目標や成功に向かって最短で効率的に失敗せず行きたい」という人が多いように感じます。

しかし成功するためには数多くの試行回数を重ねることが不可欠で、その過程で失敗や無駄も重ねることは避けられません。

逆に言えば、とにかく行動に移ってバカみたいに回数を重ねることで頭一つ抜きん出やすい環境ということでもあります。

ゲームクリエイターの桜井政博さんの「とにかくやれ!!」という動画が大好きなのですが、やる気がーとか才能がーとかゴチャゴチャ言ってねぇでとにかくやれ!!!ということで締めたいと思います。