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静寂者ジャンヌ 7 灯ったら、吹くのをやめる


こもれびに
まぶたが薔薇に
そまったら
きみの曲が
そらに響くだろう
トーフやさんのラッパのように

きょうは聞かん坊の鳥がいるみたいだ
ずっと、ひとりで喋ってるよ

〈精神〉ではなく、
〈こころ〉で祈る。

この〈精神〉と〈こころ〉の対置が、
このあいだ書いたように、
ジャンヌ・ギュイヨンの祈りの最大のポイントだ。

〈精神〉とか〈こころ〉とか、
いろいろな使われ方をして、多義的なのだけれど、
ジャンヌの場合は:

・〈精神〉ー言葉をはたらかせて、自分であれやこれや思考すること。
・〈こころ〉ー言葉をはたらかさず、ただ感じること。

・〈精神〉は頭。知性。
・〈こころ〉は感じる。感性。感じることを通じて〈からだ〉とつながっている。

ざっくり、そう図式化していいだろう。

(もっとも、ジャンヌは知性を否定しているのではない。ただ、人間の知性には限界がある。それに頼っては、キリストの叡智には近づけないと言い続ける。そのあたりは、いずれまた。)

感性で祈る。

本当に鋭敏な感性は、作為がないでしょう。
自分でどうこうしない。
来るのを待つ。
来たら、キャッチする。

キャッチしたら、耽溺する。

愛のシャワーを浴びる感じ。
そして、愛の海に耽溺する感じ。

さて、どうやって、神の愛、恩寵をキャッチするか?



ジャンヌは、例のハウツー本で、こう書いている。

まず、深く神に憧れるadortionことから始めます。神の前に自分を消し去ることから始めます。そこで、からだの目を閉じ、たましいの目を開くようにしてください。それから、たましいを〈内側〉に集めるようにしてください。そして、神が私たちのうちにいるという、いきいきとした〈信〉foi vive  によって、ダイレクトに〈神の現前〉présence de Dieu と関わるように。その時、パワーと感覚を〈外側〉に放たないようにして、それをできるだけ留め、制御するようにしてください。 
Il faut commencer par un acte profond d'adoration et d'anéantissement devant Dieu et là, tâchant de fermer les yeux du corps, ouvrir ceux de l'âme, puis la ramasser au-dedans, et s'occupant directement de la présence de Dieu par une foi vive que Dieu est en nous, sans laisser répandre les puissances et les sens au-dehors, les tenir le plus qu’il se peut captifs et assujettis.
"Moyen court" in Madame Guyon "Oeuvres mystiques" (Honoré Champion Paris)  

極めてオーソドックスな愛の瞑想法だと言える。
以下、キーワード順に、解説しよう。

まず、深く神に憧れる。
気分をかきたてるわけだ。
この最初のパートは、〈沈黙の祈り〉での唯一の能動、自力のパートだ。
サーフィンでいったら、最初のパドリングみたいなものか。

ジャンヌは、このハウツー本で、帆船の喩えを使っている。
(またこんど、この本の全体を紹介しましょう。)
沖に出るまでは、漕ぐ。
沖に出て、風をキャッチしたら、もう自分で何もしない。
そこで下手に漕いだりなんかしたら、かえって遅くなる。
すっかり風にまかせろ。
というのだ。

「いきいきとした〈信〉」は、
「ひしひしとした〈信〉」のほうがいいかもしれない。

〈信〉foi は、〈内なる道〉の基本だ。

foi は普通、「信仰」と訳すことが多い。
それでもいいのだけれど、ジャンヌの場合、
「信頼」の意味に重点が置かれている。

(フランス語には、croyance(信仰)、confiance(信頼)と、
 それぞれ別の言葉があるのだけれど、
  ジャンヌは、この confiance(信頼)とfoi をよく並べて使う)


神を純粋に信頼すること。

〈内なる道〉は、この信頼の純度の階梯だとも言える。

*
鈴木大拙が親鸞の「教行信証」を英訳している。『SHINRAN'S KYOGYOSHINSHO』(OXFORD UNIVERSITY PRESS)
これをさらにもう一度、現代日本語訳するという、ユニークな本がある。
『鈴木大拙の英訳にもとづく現代日本語訳 親鸞 教行信証』(東本願寺出版)

親鸞の「信」に、大拙は faith をあてている。その faith を、現代日本語訳では「[心身を挙げての]信頼」としている。

ジャンヌのfoi もこれです。
で、〈信〉と訳すことにしました。
シンプルに一文字で、気持ちいいしね。

愛は純粋な信頼に根ざしている。


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純粋愛


〈神の現前〉は、神を、現に・ここに、リアルに感じることだ。
ジャンヌはよく〈神の現前を享楽する〉と表現する。
神の現前は、理解するものではなく、ダイレクトに感じるものだ。

根源的な生、いのち、を実感すること
と言ってもいいだろう。

自分が生きているというリアルの実感。

ジャンヌは、これが欲しくて、神を求めていた。

「パワーと感覚を〈外側〉に放たないようにして、それをできるだけ留め、制御するようにしてください」ー これは、すごく基本的な瞑想テクニックだ。



そうやって実習しているうちに、そのうち〈神の現前〉の甘やかさを、

(「神」という言葉に抵抗があったら)
〈現前〉の甘やかさを、

じわーっと実感できるようになる。

でも最初の頃は、すぐに途切れてしまう。
そうしたら、またやり直せばいい。
愛を、また掻き立てる。

そして(…)再び甘やかな安らぎに戻ったら、そこに留まりましょう。
火はそっと吹かなければなりません。灯ったら、吹くのをやめ
る。吹き続けたら、消えてしまうでしょう。
Et si dès la première affection elle se trouve remise dans sa douce paix, qu'elle y demeure. Il faut souffler doucement le feu et, sitôt qu'il est allumé, cesser de le souffler, car qui voudrait encore souffler, l'éteindrait.
"Moyen court"

火はそっと吹かなければならない。
灯ったら、吹くのをやめる。

この間合いだ。

この愛は、最終的には、対象がない。
できれば、最初から、対象を立てないほうがいいと、
現代の静寂者は言う。

ただ、じわ〜、を実感するってことだろう。
とはいえ、とりとめもなくて、最初はなかなか難しいだろう。
やはり、お師匠さんは大事だ。
師から、宇宙エネルギーとも言えるこの愛を、直伝してもらうのは大事だ。

師は、無限へのドアノブのようなものかな。

何の道でもそうだろう。

ここまでは、風に乗るまでの、能動的な「漕ぐ」テクニックだ。
ここからが本番だ。



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