静寂者ジャンヌ 7 灯ったら、吹くのをやめる
こもれびに
まぶたが薔薇に
そまったら
きみの曲が
そらに響くだろう
トーフやさんのラッパのように
*
きょうは聞かん坊の鳥がいるみたいだ
ずっと、ひとりで喋ってるよ
*
〈精神〉ではなく、
〈こころ〉で祈る。
この〈精神〉と〈こころ〉の対置が、
このあいだ書いたように、
ジャンヌ・ギュイヨンの祈りの最大のポイントだ。
〈精神〉とか〈こころ〉とか、
いろいろな使われ方をして、多義的なのだけれど、
ジャンヌの場合は:
・〈精神〉ー言葉をはたらかせて、自分であれやこれや思考すること。
・〈こころ〉ー言葉をはたらかさず、ただ感じること。
・〈精神〉は頭。知性。
・〈こころ〉は感じる。感性。感じることを通じて〈からだ〉とつながっている。
ざっくり、そう図式化していいだろう。
(もっとも、ジャンヌは知性を否定しているのではない。ただ、人間の知性には限界がある。それに頼っては、キリストの叡智には近づけないと言い続ける。そのあたりは、いずれまた。)
*
感性で祈る。
本当に鋭敏な感性は、作為がないでしょう。
自分でどうこうしない。
来るのを待つ。
来たら、キャッチする。
キャッチしたら、耽溺する。
愛のシャワーを浴びる感じ。
そして、愛の海に耽溺する感じ。
さて、どうやって、神の愛、恩寵をキャッチするか?
*
ジャンヌは、例のハウツー本で、こう書いている。
まず、深く神に憧れるadortionことから始めます。神の前に自分を消し去ることから始めます。そこで、からだの目を閉じ、たましいの目を開くようにしてください。それから、たましいを〈内側〉に集めるようにしてください。そして、神が私たちのうちにいるという、いきいきとした〈信〉foi vive によって、ダイレクトに〈神の現前〉présence de Dieu と関わるように。その時、パワーと感覚を〈外側〉に放たないようにして、それをできるだけ留め、制御するようにしてください。
Il faut commencer par un acte profond d'adoration et d'anéantissement devant Dieu et là, tâchant de fermer les yeux du corps, ouvrir ceux de l'âme, puis la ramasser au-dedans, et s'occupant directement de la présence de Dieu par une foi vive que Dieu est en nous, sans laisser répandre les puissances et les sens au-dehors, les tenir le plus qu’il se peut captifs et assujettis.
"Moyen court" in Madame Guyon "Oeuvres mystiques" (Honoré Champion Paris)
極めてオーソドックスな愛の瞑想法だと言える。
以下、キーワード順に、解説しよう。
*
まず、深く神に憧れる。
気分をかきたてるわけだ。
この最初のパートは、〈沈黙の祈り〉での唯一の能動、自力のパートだ。
サーフィンでいったら、最初のパドリングみたいなものか。
ジャンヌは、このハウツー本で、帆船の喩えを使っている。
(またこんど、この本の全体を紹介しましょう。)
沖に出るまでは、漕ぐ。
沖に出て、風をキャッチしたら、もう自分で何もしない。
そこで下手に漕いだりなんかしたら、かえって遅くなる。
すっかり風にまかせろ。
というのだ。
*
「いきいきとした〈信〉」は、
「ひしひしとした〈信〉」のほうがいいかもしれない。
〈信〉foi は、〈内なる道〉の基本だ。
foi は普通、「信仰」と訳すことが多い。
それでもいいのだけれど、ジャンヌの場合、
「信頼」の意味に重点が置かれている。
(フランス語には、croyance(信仰)、confiance(信頼)と、
それぞれ別の言葉があるのだけれど、
ジャンヌは、この confiance(信頼)とfoi をよく並べて使う)
神を純粋に信頼すること。
〈内なる道〉は、この信頼の純度の階梯だとも言える。
*
鈴木大拙が親鸞の「教行信証」を英訳している。『SHINRAN'S KYOGYOSHINSHO』(OXFORD UNIVERSITY PRESS)
これをさらにもう一度、現代日本語訳するという、ユニークな本がある。
『鈴木大拙の英訳にもとづく現代日本語訳 親鸞 教行信証』(東本願寺出版)
親鸞の「信」に、大拙は faith をあてている。その faith を、現代日本語訳では「[心身を挙げての]信頼」としている。
ジャンヌのfoi もこれです。
で、〈信〉と訳すことにしました。
シンプルに一文字で、気持ちいいしね。
愛は純粋な信頼に根ざしている。
純粋愛
〈神の現前〉は、神を、現に・ここに、リアルに感じることだ。
ジャンヌはよく〈神の現前を享楽する〉と表現する。
神の現前は、理解するものではなく、ダイレクトに感じるものだ。
根源的な生、いのち、を実感すること
と言ってもいいだろう。
自分が生きているというリアルの実感。
ジャンヌは、これが欲しくて、神を求めていた。
*
「パワーと感覚を〈外側〉に放たないようにして、それをできるだけ留め、制御するようにしてください」ー これは、すごく基本的な瞑想テクニックだ。
*
そうやって実習しているうちに、そのうち〈神の現前〉の甘やかさを、
(「神」という言葉に抵抗があったら)
〈現前〉の甘やかさを、
じわーっと実感できるようになる。
でも最初の頃は、すぐに途切れてしまう。
そうしたら、またやり直せばいい。
愛を、また掻き立てる。
そして(…)再び甘やかな安らぎに戻ったら、そこに留まりましょう。
火はそっと吹かなければなりません。灯ったら、吹くのをやめ
る。吹き続けたら、消えてしまうでしょう。
Et si dès la première affection elle se trouve remise dans sa douce paix, qu'elle y demeure. Il faut souffler doucement le feu et, sitôt qu'il est allumé, cesser de le souffler, car qui voudrait encore souffler, l'éteindrait.
"Moyen court"
火はそっと吹かなければならない。
灯ったら、吹くのをやめる。
この間合いだ。
*
この愛は、最終的には、対象がない。
できれば、最初から、対象を立てないほうがいいと、
現代の静寂者は言う。
ただ、じわ〜、を実感するってことだろう。
とはいえ、とりとめもなくて、最初はなかなか難しいだろう。
やはり、お師匠さんは大事だ。
師から、宇宙エネルギーとも言えるこの愛を、直伝してもらうのは大事だ。
師は、無限へのドアノブのようなものかな。
何の道でもそうだろう。
*
ここまでは、風に乗るまでの、能動的な「漕ぐ」テクニックだ。
ここからが本番だ。
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