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プロローグ~中国タクシー運転手の「友達」の言葉に~

 「俺たちはもう、友達じゃないか」
 タクシー運転手の言葉に、準備していた人民元を、ギュッと握りしめ、ジーンズのポケットにしまった―。

初めての長期滞在で訪れた上海市

 2004年3月、当時19歳だった私は中国・上海の復旦大学にいた。1年間、立命館アジア太平洋大学(APU、大分県別府市)で学び、1回生から2回生への進級の春休みを使い、APU主催の語学研修に参加していた。初めて家族以外との海外渡航、それも1ヵ月の長期滞在。

 「中国語」には思い入れがあった。大学受験当時、「英語の先生になりたい」と思っていた私は、国立の外国語大学を受験。英語には自信を持っていたが、入試のレベルの高さに打ちのめされていた。しかし、武蔵境駅(というと受験失敗した大学名がばれるが)に向かう受験生たちから漏れ聞こえた「今年は簡単だったね」という言葉がさらに追い打ちをかけ・・・。

 そんな中、「語学への自信」を取り戻すための旅が、この中国語学研修だった。高校時代、横山光輝、吉川英治と「三国志」を読み漁り、「三国志をいつか中国語で読んでみたい!」との思いが高まり、中国語習得への熱が高まっていた。環境やメディアなどの授業もあり、「語学+α」を学べるのでは・・・という思いもあった。まだ卒業生を出していない(私は4期生だった)地元の私立大学であるAPUに、高校の担任に反対されながら(笑)進学を決めたきっかけだった。

 中国No.2の復旦大学での授業は、本当に刺激的だった。習ったフレーズを、授業が終わってから街に出て、店員相手にそれを試す。それが通じる喜び! 道端では1元で2個買える肉包をほおばりながら教室へと向かい、珍珠奶茶(タピオカミルクティー)の店はほぼ全種類を制覇した。食事一つとっても、見るものすべてが新鮮だった。

 中国では、もう一つ学びたいテーマがあった。中国などの古典だけではなく、日本と中国の近代史、特に日中戦争の歴史について学びたいと思っていた。ただ、この選択が、のちに私の人生の”方向性”を決めてしまう出来事を引き起こすとは、この時の山路青年はつゆ知らず・・・。

同級生と決めていた「日本人を隠す」

 戦争の歴史の一つとして、ぜひ訪れてみたいと思っていたのが、上海市と接する江蘇省にある、南京市だ。日中戦争下で、日本軍による大虐殺が行われたとされる街だ。同じ語学研修に参加してた同級生と、週末の研修休みを使って、南京市へのプチ旅行を企画した。

 今でこそ上海-南京間は高速鉄道が通り、1時間半強で行けるようだが、当時は鈍行列車で4時間ほどかかったように記憶している。それでも、朝一番に出て、大虐殺紀念館を見学して再び列車に乗れば、十分に日帰りで戻れる・・・はずだった。

 誤算は、突如降り出した豪雨。昼前には南京に着くはずが、列車は大幅に遅れたこと。着いたのはなんと夕方6時ごろだった。仕方なく、その日は安宿を探して、南京に1泊することにした。駅で適当なタクシーを拾い、「ホテルに泊まりたい」と告げて、車は走り出した。

 同級生とは行きの列車の中で決めていたことがあった。それは、「日本人であることを隠すこと」。虐殺があったとされる街で、日本人であることがばれたら、何かされるのではないか―。そんな不安からの、幼い考えだった。「『何人?』って聞かれたら、『韓国人』って答えよう」などと、軽口をたたきながら、向かった南京だった。

 しかし、私たちが乗ったタクシーの運転手さんは、心配をよそに、フレンドリーに話しかけてきてくれた。私たちも日中辞典を片手に、片言の中国語で会話を進める。徐々に打ち解け、「この人ならば」と思い、意を決して「実は私たちは日本から来たんです」と話しても、「おー、日本は行ってみたい国なんだよね!」と軽く返され、拍子抜けした感じだった。20分ほどだったろうか、運転手さんおすすめの安宿前で下してもらい、別れを告げた。

クレジットカードを手に「こいつらは信用できる奴だから!」

 宿に着き、宿泊手続きを進め、「パスポートを出してください」と言われ、ハッと気づいた。

 パスポートを、上海の大学寮のロッカーに忘れてきてしまっていたのだ。

 外国人は、パスポート(身分証)の提示なしには泊まることができない。それを私が携帯していない。うかつだった。あえなく宿泊を拒否され、うなだれながらホテルの前へと進み出た。

 「あれ、お前たち泊まれなかったのか?」

 そこで私たちに声をかけた人物がいた。先ほど、南京駅からホテルまで送ってくれた運転手さんだ。事情を話すと、彼はこう買って出てくれた。

 「よし、俺が泊まれるホテルを見つけてやるよ!」

 それから彼は、私たちを乗せると、走り出した。1軒、2軒・・・とホテルを回り、交渉をしてくれた。だが、どこもパスポートなしでは泊めてくれない。さらに3軒、4軒と回りながら、途中で気づいた。タクシーのメーターが上がっていない・・・。「あとでどのくらい請求されるかな」。貧乏旅行に加え、パスポートなしで泊まるところもない恐怖心から、そんな疑念も抱いてしまった。

 しかし、そんな疑念が頭をもたげたことを後悔するような光景を目の当たりにした。彼は、おもむろに財布からクレジットカードを取り出し、ホテルのフロントにこう告げた。

「こいつらは信用できる奴だから! 俺が保証する!」

 中国語では、クレジットカードを「信用卡」と書く。この日あったばかりの、それも外国人、日本人である私たちのために、なぜそこまで・・・。本当に目頭が熱くなった。結局10軒ほど周り、何とか泊めてくれるホテルがあった。

 そして、別れ際、同級生と話し、「このくらいかな?」と思いながら、わずかな人民元を用意し、渡そうとした。しかし、彼はこう言ったのだった。

 「俺たちはもう、友達じゃないか。友達のためにしたんだから、受け取らないよ」

 そうして彼は、走り去っていった―。

国籍や民族で人を判断するのではなく、一人の「人間(ヒト)」として

 この経験は、19歳の私に大きな衝撃を与えた。同時に、「日本人であることを隠そう」と思った自身を恥じた。

 彼は、「中国人」として私たちに接したのではなく、一人の「人間(ヒト)」として接してくれていたのだ。壁をつくっていたのは、私の方だった。

 当時、私は在日コリアンの人たちとサークルを組み、生活を共にすることが多かった。日本に生まれながらも、国籍は朝鮮籍や韓国籍。「自分は何人なのか」と、アイデンティティに悩む友人も多かった。

 そのような経験から、私が導き出したのが「人をヒトとして好きになる」という理念。国同士は、いがみ合いを続けているかもしれない。でも、もっと草の根レベルで、国籍や民族を超えて認め合える(好きになる)社会がつくれたら、もっと世界は平和になるし、もっと多くの人が幸せを感じられるのではないかー。今でこそ、「地球市民」という言葉や、SDGs(10.2 2030年までに、年齢、性別、障害、人種、民族、出自、宗教、あるいは経済的地位その他の状況に関わりなく、全ての人々の能力強化及び社会的、経済的及び政治的な包含を促進する)などの理念が世に広まっているが、当時の私としては、大きな”気づき”だった。

 以来、大学卒業後、西日本新聞社での記者、青年海外協力隊、認定NPO法人地球市民の会、サワディー佐賀の活動、ウクライナ支援、そして退職してフリーランスになっても、この「人をヒトとして好きになる」の理念は、変わることなく活動の柱にある。なぜならそれは、私が人生を懸けて取り組むべき、大きなテーマだから―。


 多文化共生社会をつくるため、2023年8月24日(ウクライナ侵攻開始から1年半)、「人とヒトの幸せ開発研究所」として起業しました。「人をヒトとして好きになる」の理念を掲げ、新聞記者、青年海外協力隊、NPO・NGOスタッフなどとして活動してきた半生を、反省を込めて振り返ります。

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KenzoYamaji/山路健造@たぶさぽ代表理事
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