見出し画像

『ポストコロナの難しさ』

 「コロナ以後、色々とやりにくくなった」
 最近、こんな話題の会話をすること、多くないですか?
 「取引相手とのコミュニケーションがコロナ前と勝手が違う」、「コロナ挟んで若手社員が分からなくなった」、なんてビジネス上のことであったり、「飲み会や遊びに行かなくなった」、「コロナの後に交友関係が変わってしまった」、といったプライベートなことまで。
 私自身も思い当たる節もあり、よく同調して話し込んでしまいます。こうした会話はたいてい、「人間同士の距離の詰め方が難しくなった」、と言う結論に落ち着きます。
 人は、コロナがあろうが無かろうが、他人との関係構築において個人のコミュニケーション能力に依るところが大きいので、いつの時代であっても人間関係について悩むものです。恐らく、社会生活をする人間にとって、人間関係は永遠のテーマでしょう。それは幼稚園や保育園に預けられた時からこのテーマに直面することになります。ですから、常日頃抱きがちな悩みに「コロナ」というワードが結びつきやすいのだろうとも考えられます。コロナ時代(呼称には異論があることは踏まえつつ)に人との距離は、物理的な量を持つ間隔として明示されるようになりました。いわゆる、「三密の回避」というやつです。物理的に距離をとる生活習慣を強要された時間を過ごさなければならなかったことで、人との距離の取り方に「コロナ」を想起することは自然なことでしょう。ただ、ついつい「コロナの所為で難しくなった」と言いたくなるのも人情、適切なディスタンスについて考えることは多くなりました。


 「わかりやすい先生」と聞いて、皆さんはどんな先生を思い浮かべますか?
 当然、教え方が上手な先生と頭の中で言い換えている方も多いでしょう。「教え方が上手い」、というのは、豊富な知識と深い見識でもって高度な学習内容を持っていること、とか、誰にでも理解できる平易な解説法を持っていることになると思います。自ずと、良い先生素晴らしい先生というのは一般的にはこういう方々だと思います。
 「わかりやすい先生」について、私がよく引き合いに出すのは『一休さんの屏風の虎』の話です。将軍に「屏風に描かれた虎を捕獲せよ」と無理難題を押しつけられた一休さんが、その将軍に対して「屏風から虎を追い出してください」と飄々と答えたという逸話です。いくら素晴らしい先生が子供の目の前に居ても子供が屏風の虎だったらどうしようもありません。どんなに内容が濃くて、どんなに平易な言葉が使われていても、教わる側が聞く耳を持っていなければ、全くの無駄です。教わる側が聞く耳を持っていないのは論外ではありますが、きちんと聞いていても頭に入らない子供は多いです。私の言う「わかりやすい先生」とは屏風の中に居る子供を屏風の外に出せる先生です。屏風の外に出すというのは、教え手に対して興味を抱き、心を開かせることです。極端な話、少なくとも教え手の知識と理解が教わり手よりも上であり、教わる側が心を開いて教え手と接してくれさえすれば、教わる子供にとって「わかりやすい先生」になれるのです。良い先生素晴らしい先生には、先生と生徒の開かれた関係を築ける能力も重要だということです。
 ただ、一口に「開かれた関係を作る」と言ってもそう簡単なことではありません。学校や塾では、1対多数という組織編成上、先生と生徒との双方向の関係性が結びにくく、とかく一方通行的な関係になりがちです。しかし、そんな中でも卓越して関係を結ぶ先生がいることは事実です。私は家庭教師という1対1の関係で生徒と接する立場だからよく分かるのですが、やはり距離感なんです。いかに子供との距離を縮められるか、これによるのです。なかなか表現が難しいのですが、心持ち踏み込んだ距離くらいになれば子供は心を開いてくれます。私自身が側から見聞きした上記のような関係構築に卓越している先生達は、確かに生徒との距離感が近いです。それは、親や兄弟、友達とも違う、決して他人ではない距離感です。これも家庭教師という私自身の経験で言うならば、親と距離を置きたい子供には親並の距離を、友達があまりできない子供には友達並の近さを、また、自己肯定感が強い子供には一歩引き、自己肯定感が低い子供には一歩踏み込む、など臨機応変に対応してます。こうした対応には綿密な観察が必要で、多少の時間が必要になってきます。初見でそれが出来るなら良いのでしょうが、見極める為の時間は慎重にして惜しまない、よう心掛けています。
 無論、子供との距離については先生個人個人がそれぞれの考えを持っていて、必ずしも距離を詰めた方が良いというわけではないでしょう。あくまで私見です。先生の一般論を述べているつもりはありません。ただ、心中に踏み込まれたくない子供も居るだろう、という反論は誤解です。子供の状態を見極め、それに応じた踏み込み方とその距離を模索し続けることの重要性を書いているつもりです。

 マスクが習慣化して、学校でも常時マスクを着用している子供は少なからず居ます。私の授業中でもマスクを外さない子供が居ます。マスクをしているから表情が分からない、心理が読みにくくなった、なんてのは自分への言い訳と思いながら精一杯接しているつもりですが、自分の距離感がはたして正しいのか、という疑問は付きまといます。このマスクを越えて踏み込みたいと思ったり、このマスクを越えてはならない、との葛藤があるのは事実です。ここではマスクを象徴的に取り上げていますが、コロナ以前と以後で子供達の中に何らかの変化があるのかどうかを探っているところなのです。また、以前のように学校の先生が怒らなくなったって話をしばしば聞くようになったのは、学校現場でも距離感の取り方に苦慮しているところがあるのかも知れません。
 ただ、主に子供との関係について述べてきましたが、子供のコミュニケーション能力は発展の途上にあり、未熟なコミュニケーション力が前提です。コミュニケーションを引っ張るのは大人の役目です。マスクをしていようがしていまいが、彼らにとって心地よい踏み込み方をしてあげることに努めなければならないと考えています。またそうすることで、彼らがコミュニケーションそのものを学んでいくのです。


 「人との接触に煩わしさを感じる」、そう考える人は多いでしょう。現代人にはどこかそういう傾向が顕著なような気がします。コミュニケーションツールは手紙より電話、電話よりもメール、こうしたやりとりの変遷にも人との距離感が垣間見える感じがします。もしかして、この傾向にコロナという現象は渡りに船だったのかも知れません。無理に他人と濃厚な接触をしなくても良くなった、と逆に解放された気分になった人も少なくないと思います。
 「さて、この解放感の果てにあるのは何でしょうか?」
 私は、コロナの後の難しさ、がここにあるような気がしてなりません。
 煩わしいと思いつつも、日夜人付き合いで獲得し続けてきたコミュニケーション能力。どこか距離を置きたい願望とは裏腹の忘れられない人の温もり。面倒くさいながらも頼り頼られの関係。
 解放感の果てにあるのは、これらを失ってしまうのではないか?という不安感であり、他人に感じる難しさは自分の内にある不安感の表出なのかも知れません。
 今や経済は動き、街に人が溢れ、コロナ停滞の揺り戻しの様相すら見せています。かと言って、人間関係はままならない。ただただ、「コロナ前は良かった」とノスタルジックな感慨に耽るよりは、自分から一歩踏み込みませんか。
 多分、目の前の人はそれを待ってる筈ですよ。

#ポストコロナ #コロナ #教育 #家庭教師
#子育て #コミュニケーション

いいなと思ったら応援しよう!