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江戸時代の京都/今の京都 第3回 知恩院 御忌(ぎょき)

 こんにちは。
 今回は東山にある知恩院のおはなしです。

 京都の東山、八坂神社の北に、総本山知恩院があります。
 御存知のとおり、浄土宗の総本山で、京都を代表する大寺院のひとつと言えます。
 江戸時代の図会をごらんください。

 東山を背にした広大な敷地の中に、国宝の御影堂、三門、重要文化財の集会堂などがあり、江戸時代と今で大きくは変わっていません。

 さて、知恩院の重要な行事のひとつに御忌(ぎょき)があります。開祖である法然上人の忌日法要です。
 2023年は4月18日から25日の間、御忌が行われました。

 御忌は長い期間にわたってさまざまなおつとめがなされます。法要へは一般の方のお参りが可能です。

 さて、江戸時代の知恩院、御忌はどのようなものだったのでしょうか。
 宣長は宝暦六年正月二十四日に、知人らと知恩院にお詣りをしています。
 その時の様子を読んでみましょう。

宝暦六年正月二十四日(1756年2月23日) 
 いつも知恩院の御忌(ぎょき)の法要は大勢の人がお参りするので、とんでもない賑わしさであるが、今年はこのところ寒さも続き、今朝は天気も晴れず、道もぬかるんでいるので、いつもよりは寂しい感じだ。そうは言っても、多くの人が詣っている。
 春の初めのお参りになるので、自然と人の心ものどやかになっていて、それぞれに着飾って行き交う。祇園町のあたりでは、肩が触れそうになるくらいの混み具合だ。
 知恩院の御影堂に詣り、今日は亡き師、堀元厚氏の命日なので、冥福を祈り拝んだ。南の門を出て、祇園林を過ぎ、二軒茶屋で食事をした。とても人が多く集まって、賑やかな様子だ。

 まず、宣長の時代と今では、御忌の実施の日にちが異なっていることがわかります。
 もともと法然上人の命日は一月二十五日です。宣長の時代には命日に合わせ、御忌は正月に行われていました。それが今は4月に行われています。
 知恩院さんによりますと、明治10年(1877)から、多くの人々に参詣いただけるよう、1月から時候の良い4月に行われるようになった、とのことです。

 季節がズレていることとも関連して、江戸時代の御忌と今の御忌とでは少し様変わりしているようです。
 正月に行われていたときには、一年のはじめのお参りとして、華やかに着飾って参拝する人が多いことから、別名「衣装競べ」と呼ばれていました。その様子が宣長の記述からもわかります。
 当時の図絵を見てみましょう。

 沢山の着飾った人達が描かれています。お正月のお参りですので、初詣のようなイメージなのかもしれません。
 今も沢山の方がお参りですが、衣装競べというような華やかなものではありません。

 さて、『在京日記』には宝暦七年の御忌の記事も記載されています。そちらもみてみましょう。

宝暦七年正月二十三日(1757年3月12日)
 母君と母の姉のふささんが、知恩院の御忌まいりのために上京してきて、先斗町の「いとや久右衛門」という宿に泊まっていると、宿から使いの者が知らせてきた。思いもかけず、嬉しくて、その夜すぐに行ってお会いした。
 お変わりなく健やかにしておられるお姿を拝見して、とてもとても嬉しいことだ。
 雨が降って、とても寒い日なので、御忌にはまだまいっておられなかった。

正月二十四日(1757年3月13日)
 今日もとても風が強く、寒い日だ。今夜は、母君が知恩院の御忌で通夜をされる。さぞかし寒いことだろうと心配する。夜に入ると寒さが一層強まった。

 宣長の母かつが、御忌まいりのために上京し、夜通しの法要に参加したことが記されています。本居家は代々浄土宗なのですが、松阪から上京し、寒い時期に夜通しのお勤めと、その熱心さに驚きます。
 御忌へは宣長の母だけでなく、遠方から、また京都中から大勢の人が参詣し、正月の一大行事であったであろうことがうかがえます。

 知恩院さんでは、今も夜通しのお勤めが「ミッドナイト念仏 in 御忌」の名で行われています。名前を変え、日にちを変え、それでも継続されている行事、文化があります。
 はじめの図会に見られる主な建造物は、江戸時代と今で変わっておりません。宣長が詣った御影堂は現存しています。
 その一方で衣装競べといわれるような派手さは、今の御忌には見られません。
 江戸時代の京都と今の京都で、変わっているもの、変わっていないもの。さまざまです。

 余談ですが、京都の方は知恩院を「ちおいんさん」と呼ぶことが多いように思います。私もそうです。「ちおんいん」が言いにくいからでしょうか…。

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