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「共感性羞恥」は成長への原動力となるか(『ふつうの軽音部』でandymori を熱唱するはとっちを見て考えたことなど)

何かするってことが恥ずかしい。
だから、生きること= 恥ずかしい。

子供のころ何もしなくてもモテた。
ていうか何もしない方が、モテた。
「モテ期」早過ぎの悲劇。

小3の時の運動会、盆踊りみたいな振り付けが上手くできず、熱血教師にダメ出しされ。いくらやっても自分は何度も直されたので未だに覚えてる。自分てダメなんだな。

そうやっていろいろ、何かする自分が恥ずかしかった。もう何もしたくない ! 
( そもそも存在自体が恥ずかしいのに )

中学や高校に上がって、いくらツッパってみたところで ( 私じゃなくてね ) 体育の時間は学年色でネーム入りのジャージを着なきゃで恥ずかしいし、就職して社会に出ても、また誰かが決めた、それぞれのルールを守らなきゃお金も稼げるようになれないし。NO!


早送り⏩️

1985年5月6日 月曜日、尾崎豊のセカンドアルバム『回帰線』ツアーの初日を、入学したばかりの短大の同級生 ( 年上 ) を誘って東京 立川市市民会館に観に行った。そのとき配られたチラシの束に BOØWY の、まだライブハウスか、せいぜい小ホール時代のフライヤーが入ってたのを覚えている。そっちを追っていたらまた違った話ができただろうな ( と、その後何度も思った )

早送り⏩️⏩️

短大を出て、就職せずにアルバイトしていて、しばらくして正社員にしてもらった頃、後からアルバイトで入ってきた若い音楽好きの Sくんてコと仲良くなり、CD の貸し借りしたり布袋寅泰さんの本⬇️を借りたりした。


『Radio Pleasure Box』
(ぴあMOOKS, ぴあMusic Collection)

布袋さんが ? って意外に思えるネオアコ系のものとか、幅広く聴いてきたのがわかる良いガイドブックで、この本を参考にいろいろな音楽を聴くことができ、とても重宝した。

その頃ちょうど、バブルは弾けても、その余韻は続く会社では、家族や関連会社、地域の人まで招いて「感謝の集い」みたいなイベントをやっていた。

そういう時、当時は余興でカラオケ大会みたいのが必ずあって、若手の社員やアルバイトに声がかかり ( 半ば強制 ) そんな中、率先して手を上げたバイトのSくんは、ノリノリのステージを始めてしまった。

何が始まるのかと見ていたら、彼は普通のカラオケはやらず、バックトラックを仕込んだ機材を持参し、オリジナルのテイクでパフォーマンスを繰り広げた。中々のカッコ良さだった。

しかしそこは地域の、いや本当に地域のお祭りならまだよかったが、実際は会社内の見知った人たちがメインだったので「もっと前の方に来て」「恥ずかしがらずに !」みたく煽ったり、アーティストに成りきっていた為、その場ではかなり浮いちゃってた。

BOØWY はカッコいい分、罪でもあった。

早送り⏩️⏩️⏩️


時を経て、最近の話になります。
コロナ禍 ? コロナ過 ? くらいにまた社員とアルバイトとして出会った Mさん ( センスがあって面白い。深く話せる仲になれて良かった ) という人がいて。最近また連絡を取り合い、その際に教えてもらった『ふつうの軽音部』という漫画を読んだ⬇️

「私はね!一番好きなのはアンディモリ…銀杏とかナンバガも同じくらい好きだけど。志村ボーカル時代のフジファブリックも外せないな…」

「高校では音楽の趣味が合う友達見つかるといいなぁ…」

入学式の前日に、お年玉と母への借金でフェンダー テレキャスターを買い、軽音デビューへの段取りを踏んでいく。そんな主人公のはとっちだが…

新歓のライブで、軽音部の先輩たちが、肝心の新入生たちを気にもとめず、銀杏BOYZ『あいどんわなだい』で 内輪で盛り上がっている場面を見て、

「正直言ってきつい。いわゆる共感性羞恥をすごく感じる」

と、心の中でつぶやく。

「共感性羞恥」いつ出来た言葉なのか、経緯はよく知らないが、初めて目にしたときにあぁ、あの場面のことか…とはなった。

音楽って共感性羞恥に一番近いところにあるジャンルだ。誰でも普通に好きだしカラオケ歌ったりすることがあるわけだから、そこでのあれやこれやで ( あとはお笑いとかかなぁ )なので集約される場所、それが軽音なのですよね。

と思い込んでいるわたし、説明するまでもなく、それで通じるだろうと一般化しようとしてるわたし、について、考えさせられる。

でもそれは一旦カッコに入れ、自分の感覚で続けてみる。が、その前に「共感性羞恥心とは?」でググってみると、そこで定義されているものは…

「他人が叱られるなどして恥をかいていると自分も恥ずかしくなる感情のこと。簡潔に言えば『いたたまれない』『可哀想で見ていられない』という感情です」

となっているわけだけど、何を指して発生した言葉なのか、過去の経験等から自分の感覚を当てはめてみると、自分が感じる恥ずかしさという以上に、例えばテレビで素人がモノマネをしていて、似ていると信じてそれっぽく披露しているのを観ていて、似てない、というか面白くない、寒い ! ってことがあるじゃないですか。

「あ~ これを見た ( 横で観ている ) この人は今、とっても恥ずかしい感情になっているだろうなぁ、できれば見せたくなかったな~」みたいな、やらかした当人 ( は寧ろ感じていない ) を超えて、他人の気持ちを勝手に先取りしてして ( そこで発生してしまう ) 「いたたまれなさ」のことだと思っていた。

なのでそこで前提になっているのは、自分が感じる耐えがたい恥ずかしさは、一緒にいるこの人もきっとそうだろう。そうに違いない。であるならば、他人に恥ずかしい思いをさせてはいけない…

そう共感性羞恥とはモノマネだ。
しかも下手だったときの、最悪。
だからカラオケ、軽音。

が、しかし…

共感性羞恥とは、はとっちのように世間一般 ( 高校でもある ) の人はまず聴かない ( 知らない ) ようなバンド、の作品を、愛して止まないタイプだけ、が、勝手に過剰に感じてるだけなのかも知れない。

わたしも ( リンクしたポストを見るまで ) 若者なら皆、全ての表現を「作品」として捉えるだろうというような思い込みが、さっきまであった。

第8話、校内ライブの前日、スマホを忘れて視聴覚室に取りに戻り、誰もいないステージに上がり  ( 変なテンションになり ) アンディモリ 『everything is my guitar』を出来もしない ( この場合むしろ来る ! )弾き語りで熱唱するシーンには感動を禁じ得ない…

のは ! そこに挟まれる回想場面、辛く悲しい出来事と共に、中学でクラスの輪に入れないはとっちが体育祭後のカラオケに誘われ、「これを機にクラスの輪に入れるかも」と淡い期待を胸にしつつ ( 裏切られるが ) 、カラオケで熱唱した「一番好きな曲」なのが効いてる😢

(クセすごいな、歌声なんかキモくない?)

そういう体験をしても、高校に行けば音楽の趣味が合う人がいると信じてマイナーチックなバンド名を繰り出すのを止められない。何度でも、チャレンジせずにはいられない。音楽話って、音楽を愛する人間の、賭けであり、祈りなんだ。

音楽好きの共感性羞恥とは、他人に恥ずかしい思いをさせちゃいけない。そういう屈折を経た  ( 防衛機制でもあるが ) 、もはや優しさなのだ。わかってもらえないことがわかっていることなのだ。

誰もいない視聴覚室での、アンディモリのカバーはカッコいいし✨ 中学時代のカラオケも、実はかなりイケてるハズ♪ ( はとっちが付けた『ラ チッタデッラ』ってバンド名、センスあるじゃないですか )

そういう内面の移動が、実はわかってる人に発生する葛藤だ。だから言うまでもないが、笑いと意地悪、感動と恥ずかしさ、それらはまぁ紙一重なんだ。

本当はわかってる。
恥ずかしいことじゃない ( ってことを ) 

恥ずかしいのは裸の心。
それをさらけ出したときに、
わかってもらえなかった残念な気持ち。

もはや「娯楽派」はどうでもいい。

しかしここで、全てが自分のものであったなら、つまり曲も歌詞もオリジナルの「作品」で、自分でこれでヨシ ! と仕上がったものであったなら。

その時「作品派」(つまり自分)に対する、どこか恥ずかしい気持ち、も、きっと薄れていくのだろう。

野茂がもし
世界のNOMOに
なろうとも
君や私の
手柄ではない 
( 枡野浩一 )


読んでくれてありがとうございました🐱







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