夢の中へ(さようなら僕の叔母さん)
https://youtu.be/Z1G6vOrCHlY?si=aSqKoY1JhVitIU_y
先々週、猫が死んだと思ったら、
今度は人間が死んでしまった。
先週の月曜日、叔母さんが亡くなった。
昭和51年 10歳、5年生。たまに来る親戚の叔母さんは、僕ら弟ではなく、あんちゃん( 父 )の大好きな、姉に話しかける。
五郎、秀樹、ひろみ ( 確か当時はこの順だった ) の新御三家、にしきのあきら。姉が『わかってください』( 因幡晃 ) 歌ってる人、何て読むの? 「いなばあきら、だよ」なんて。当時流行りの歌謡曲や、男性アイドルの話。
そんな会話を、コタツでじっと聞いていた。でもそんなのすら小学5年の男子には、まだ見ぬ知らない世界の入り口だった。
父もそうだったが昔は普通に貧しかったし、教育も平準化されてなく ( ゆえに個人的な資質に依存し ) 学があるわけもなく、テレビの歌謡番組なんかを楽しみに、ただ真面目に働いて暮らす、昔は多分よくいた気もする、どこか浮世離れした姉妹 ( 双子 ) だった。
親戚って結局、何者だったんだろう。
安置所に案内され 3列×3段の、左側上段から引き出された棺の、脚立に上って見た顔は、子供の頃から何度も会った、見慣れた叔母さんの寝顔だった。
母にも、叔母 ( 父の弟の妻 ) にも、
「あんた達、将来のこと考えなさいよ!」などといつも説教されててお気の毒だった、あの叔母さんの、永眠だった。
セブンでパスタサラダ ( の存在意義がわからないと久々に会った娘が言った。わたしも前はそうだった! ) を買って食べ、平日のリサイクルショップに立ち寄り、フォークのオムニバス集 4枚で550円を買い、帰りに流すと、
『夢の中へ』がかかった。
これだけは井上陽水じゃなきゃダメだ ( カバーも大好き、余裕で楽しめる俺だけど )
そう、すべて夢の中なんだ。
( ロゴスの社会を生きる、ピュシスな世界の僕らが見るもの )
糖尿病を克服して健康になったら、からだのアチコチが痛くなった。一見、一難去ってまた一難だけど、多分そうではない。
からだのアチコチ痛は恐らく普通に起きる老化によるもので、あのまま糖尿病的生活習慣を続けていたらそっちが起こす異変が勝り、今もからだのアチコチ痛どころじゃなかった気がする。要は神経障害の方がヤバい。
日曜日。今朝は早くから姉弟の3人で、叔母さんの葬儀に出掛けた。トラックと衝突して死亡した軽自動車の 3人は姉弟で、葬儀に向かう途中でした…とかにならぬよう運転。
無事、早く着きすぎて待合室で話し込んだ。
( それぞれの思いを率直に話せる姉弟だなぁ )
コロナ禍って経済すら止めてしまったんだから、飲み会どころか冠婚葬祭の全てを無しにしてそれでヨシ! とした ( その驚きって実は今でもハンパない )
就職してこのかた社員同士はおろか取引先の誰それが亡くなったと聞けば、極力お通夜に駆けつける。調整なんか要らない、行ける人はとにかく行く ( というのが常識だった )
それが今や復活もせず。
面倒なお付き合いがキレイさっぱり無くなっていいけど ( では一体、あれは何だったのか )
私の言う伝統は慣習のことではない。つまり、古い慣習に埋没して安寧を得ようというのが私の趣旨ではないのである。伝統とは、ほかでもない、日常生活における無自覚の繰り返しとしての慣習にたいして、いかなる解釈を自覚的にほどこすかということにかかわっている。慣習にたいする意味的な解釈のうちで後世に伝える価値のあるものが伝統だということである。
( 西部邁『人間論』日本文芸社 より引用 )
はかない記憶さえ、誰もがその意味すらよくわからず続けていた集い、そういうものがあったからこそのものだ、と思い当たる。
昨日、カウンセリングを受けてる先生に、
「フェミニストですか? 」って聞いてみた。
そうでもないし、一方的ではない。自分が向いてない、やりたくないことをやってくれたのは男性という思いもある。たとえば会社の重役とか ( そういうの、私はやりたくないタイプなので…)
今があるのって、過去の大人がやりたくないことを当たり前のように、ときには歯をくいしばり? それぞれが役割をこなしてきた歴史だったりもする。
西部邁さんって本当に凄い方だったなぁ。「民主主義」という、自由の根幹として誰もが疑わない制度についてはその民衆が選良であることを条件とするだとか、マスコミこそが第一権力であるだとか…
まだバブルの余韻に浸るあの80年代後半、
『朝まで生テレビ』に出演、それこそ孤軍奮闘で語ってくれていたのを真剣に観ていた。
今まさに、西部先生が警鐘を鳴らした予言通りの事態になっているではないか。
また朝から妻に語りそうになって、
そんなん言っても詮無いと飲み込んだ。
マンスプマンスプ。
保守とは、進歩とは。
娘が生まれた後、1998年から高橋書店のニューダイアリーに日記を書くようになり、それがもう27冊になり、気づけば今年も来年用のを買う季節になった。
これってたとえば僕が死んだら ( そっと忘れて欲しい、が )、ヴァーチャル・フィギュア ( VF ) に学習させるライフログにすることができるものなのでしょうか。
AI は、基本的に既に起こったことのデータを学習することしか出来ない。従って、〈母〉は、かつての母がいかにも言いそうなこと、実際に言ったことを口にすることが出来るが、新しい何かを喋ることは不可能である。日々の情報を与え、それに対するコメントは出来るであろうが、母そのものの加齢による、或いは体調の異変による変化を表現することは出来ないのである。
( 平野啓一郎『 AI で亡き母を蘇らせたら』文藝春秋2024年12月号より引用 )
あっ、それクリアしてるかも😂
力が湧かないんだ。
力を沸かせるにはお金が要るんだ。
残りの人生は、できるだけ馬鹿げたことをして生きていけたらいいなと思った。
昼間さんざん泣いたのに ( そもそもが俺は不謹慎かもだがやはり人の死は人の死だ )
ヨネ🐱が亡くなったことを知らせた動物病院から花束💐が届いたと聞き、また泣いた。
いつも読んでいただき、
ありがとうございます🙇♀️