高橋健也がフットサルと出会うまで 【田舎の夢見るサッカー少年】
「はい、これ。誕生日プレゼント。」
小学1年の時の誕生日。
おばさんがくれたのがサッカーボールだった。
そこから僕のサッカー人生が始まった、、。
とは、ならないのが僕のサッカー人生だ。
小学1年の頃の僕は一切サッカーボールに興味を示さなかった。
なぜならビビりな僕にとってサッカーは激しすぎたからだ。
相手がボールを取りに来たらぶつかるのを避けて明け渡すとても優しい子だった。
週に一回のサッカー教室になんとなく通っていただけ。
2年生の終わりまで何かスポーツをやっていた記憶がない。
引っ込み思案だったのでおとなしい子だった。
気がする。
3年生でクラス替えがあった。
そこで出会ったのが地域のサッカーチームでサッカーをしている友達だった。
そこから僕のサッカー人生が始まった。
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・華の小学生時代
┗ 始まり
「みんながやってるからチームに入る。」
これが僕がサッカーを始めた理由だった。
クラス替えで新しく仲良くなった友達がやっていたのがサッカーだったから自分も始めた。
それだけだった。
根がビビりの僕には、ストレスの多い決断だった。
関わったことのない上級生、コーチ。
グループの中での活動をしたことがなかったのでめちゃくちゃ端っこにいたと思う。
でも、何故かそれでもサッカーをやろうと思った。
今だからこそ、その時の自分に言いたい。
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┗ サッカーをする子の運動神経が良いのか、運動神経の良い子がサッカーをするのか
これは永遠の疑問だ。
小学4年になる頃の僕も例外ではなかった。
サッカー始めた当初は、リフティングも2回しかできなかったが、4年の頃には30回以上はできた気がする。
僕の学校では、昼休みはほとんどの運動が得意な男子はグラウンドでサッカーをするという謎の習慣があった。
全学年の生徒がグラウンドに入り交じる中、毎日サッカーをしていた。
放課後も学校が終わってからダッシュで家に帰り、サッカーボールとスパイクを自転車の篭の中に入れ、学校に戻り、サッカーをした。
気づけば体育が得意になり、足も速くなり、自分で言うのもなんだが女の子にもモテ始めた。
(足が速い=モテる 華の小学生時代)
それがサッカーをやっていたおかげなのか
元からあったポテンシャルがゴールデンエイジで急成長したのか
真相は分からない。
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┗ 夢はサッカー選手、ビビりの成長
高学年になると、サッカーも上達してきてチームで試合に出れるようになった。
この先の自分のサッカー人生で強豪チームに所属することは残念ながらないのだが、
代わりに基本、補欠になったことはほぼない。
よくいる
「無名のチームでちょっとできるやつ。」
だった。
小学生の時もそうでチームは県大会にも出ないような地元のチームだがそのなかでは上手かった。
もちろん、将来の夢はサッカー選手になること。
ロナウジーニョに憧れてた。
この頃には、放課後グラウンドにサッカーボールだけ持って行くようになっていた。
6年になるとき、市の強いチームに呼ばれたことがあった。
サッカーが上達することで自信が少しついていた自分ではあったが根はビビりなので、
「友達とサッカーするほうが楽しいから」
と断った。
サッカーへの自信や運動ができることで学校の中でも目立つキャラへと変貌を遂げつつあったがやはり根はビビりだった。
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・サッカーにのめり込む 中学生時代
僕の地元にはサッカー部がある中学校がほぼなかった。
そのため、僕は地域のクラブチームに入った。
小学校の時対戦していた子とも仲間になった。
僕のルーティーンはこうだ。
学校に行き、適当に過ごす。
学校が終わり家に帰る。
録画したプレミアリーグを見て、
公園か家の前でボールを蹴る。
夜、練習に行く。
だった。
ひたすら、イメトレ→練習、という技術を習得する上では効率の良いトレーニング方法だった。
┗ サッカーとワルで揺れる年頃
中学生のサッカー少年に降りかかる問題。
それは「サッカーに進むか、ワルに進むか。」だ。
サッカーをしている子というのは大抵が目立つキャラの子が多い。
そして、中学に上がると
足が速い=モテる、から ちょっとワルい=モテる
に変わってくる。
その流れから自分も少しワルぶっていたのが中学時代だった。
中学時代の担任や学年主任の先生達には相当な迷惑をかけていたので成人式の同窓会で会った時にはとにかく謝った。
思春期男子が少し道を踏み外すのはこれを学ぶためなのかもしれない。
僕の中学にはそこまでワルの子もいなかったし、自分はやはり根の部分がビビりだったのでワルに染まることはなかった。
それよりもやっぱりサッカーが楽しかったからそっちに熱中した。
チームも県でベスト16くらいのチームだった。
トレセンにももちろん受からない。
だが、近辺では少し名の知れた存在くらいではあったのかもしれない。
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┗ まだまだ成熟していないメンタル
今思えば、ボールを蹴るのが楽しいという感情のみでサッカーしていたのが中学時代だ。
コーチも自由にやらせてくれていたし、仲間もサッカーがとにかく好きでみんなでずっと楽しくやっていた3年間だった。
久しぶりに中学の試合を見ると、意味の分からない見せ技をするし、守備しないし(たぶんわかってない)、自分がコーチだったら絶対試合に使っていない。笑
でも、足元があったから出来ていると思っていた。
プロになれると思っていた。
でも、
フットボールが分かっていなかった。
正直フットボール選手になるためのメンタルはまだまだ足りていなかった。
最高に楽しかったし、たくさんボールを蹴った中学生時代。
選手としてのメンタルはまだまだだったが、今も残る技術の基礎を養ったのは絶対にこの時期だ。
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・苦悩の高校時代
僕は自分の人生の選択は全て正しかったと思っている。
というよりは、人生には自分の必要なことしか起こらないし、その方向に自然と進んでいく。
全ての出来事は繋がっていると思っている。
しかし、高校時代の高橋健也はそうは思えなかった。
この選択で良かったと心から思えるのはもう少し先だった。
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┗ 人生で唯一後悔していた選択
僕は高校進学の時に、もちろんサッカーで選ぼうと思っていた。
プロになるためにサッカーの強い高校に行き、選手権で活躍しプロになる。
そう思っていた。
僕は、なぜか福井県の高校に興味を持った。
何故かはわからない。
わざわざオープンスクールへも行ったし、学校に電話してサッカー部の練習にも参加させてもらった。
良い印象だったが、寮がなく、1人暮らしをしなければならなかったのでそこまでの決断が中学生の僕にはできなかった。
新潟県内の強豪もあったのだが、僕は中学時代素行はあまり良くないがとにかく勉強はある程度できたので、親に
「頼むから、勉強もしっかりやる高校に行ってくれ。」
と、言われた。
そうなると新潟の強豪の半分以上が選択肢から消えた。
親も自分がそこに行ったら水を得た魚のように勉強を放棄し、サッカーだけしかしないと勘づいていたのだろう。笑
そこで僕は自分の地元の文武両道の高校を選んだ。
僕の二個上の代が強かったのでそこでも頑張ればプロになれると思っていた。
根拠のない謎の自信だ。
今思えば、この選択の裏には
「新潟の強豪で通用しなかったらどうしよう」
という思いがあってビビっていたのもあったと思う。
プロになると言いながら心の底ではビビっていたのだ。
そこでシビアな世界に突っ込んでいく覚悟が15の僕にはなかった。
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┗ 現実を見たくなかった、自分を信じたかった
僕は運良く入部して間もなくレギュラーを勝ち取り、そこから3年間ほぼ試合に出続けた。
1年の頃は3年生が強い代だったのでリーグでも勝つことが多かったが、僕の高校は自称進学校で3年生はインターハイで引退してしまう。
だから、一緒にやったのは本当に3ヶ月ほどだった。
そこから代が変わり、試合に負けることが多くなっていった。
一番辛かったのは周りとのスタンスの違い。
僕は本気でプロになりたくて自主練も1人で毎日やっていたし、試合でも勝ちたいから最後まで諦めず戦った。
でも、周りはやはりそこまでサッカーに対して力を入れている人は少なかった。
そこに対して強制はできなかった。
だから、1人で頑張るしかなかった。
サッカーは11人でやるものなのに。
僕の一個上の代が引退する頃には、サッカー部の顧問だった先生が転任してしまった。
僕のなかでは本当に絶望的だった。
「指導を受けられないなんて、プロになれるかなんて話じゃない。選手権に出ることすら、、。」
厳しい現実を突きつけられた。
何でこんなにサッカーに本気でやってるのに。
プロになるために全てを費やしているのに。
自分に、こんな試練が起きるんだ。
辛くてたまらなかった。
でも、それでも漠然とプロになれると思っていた。
そう思いたかった。
どこかでたまたま見られているかもしれない。
練習試合でも、たまたま元プロの人が通りかかって声をかけてくれるかもしれない。
そんな微かな希望にかけて。
こんな絶望的でも夢を諦めたくなくて
とにかく自分を信じた。
そのためにたくさん練習した。
1人で壁に向かって、相手をイメージして、ドリブルやシュートをした。
本田圭佑のプロフェッショナルを何回も見た。
そういう言葉に勇気をもらわないと現実に負けそうだった。
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┗今だから、サッカー部のみんなに謝りたい。
指導者がいなくなり、僕は毎日の練習も考えなくてはいけなくなった。
どんなプレーを目的にするか考えて、その動きが出るような練習を高校生なりに頑張って考えた。
めちゃくちゃだったし、当時はいやいや作っていた。
「指導者がいれば、、
もっと自分のことに時間を使いたい。」
今になってこの時の経験が子供たちに指導する上で活きていると思っているがこの当時は知る由もない。
この時のチームメイトには辛く当たってしまった。
自分が考えた練習をだらだらやっている、上手く回らない。
プロになるために、もっとレベル高く、ハードに練習したいのに、自分の練習もしたいのに
練習が回りすらしない状況に苛立った。
酷い態度をとったこともあった。
周りから浮いてもいいと思っていた
「目指すところがちがうから。」と。
でも、間違っていたのは自分だった。
そんな自分に最後までついてきてくれていたのがその仲間たちだった。
彼らがいなければ自分はサッカーもできない。
支えられていたのは自分だった。
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┗ 「最後までやる。それがお前だ。」
とうとう3年になり、インターハイ予選が終わった。
みんなは引退し、受験勉強を始める。
のが普通だった。
しかし、僕は部活を続けた。
選手権に出るために。
正直、高校卒業と同時にプロになることは信じられない状況になっていたがもはやエゴだった。
受験のためにサッカーをしないという状況がありえなかった。
深く先について考えたくなかった。
その受験しなくてはいけないという状況が嫌だった。
それは自分がサッカーで負けたことを意味するからだ。
みんなが放課後勉強をするなか僕は部活に行った。
そして、終わってから夜遅くまで勉強した。
朝も早く起きて少し勉強し、朝練をして授業を受けた。
そんな生活をしていると夏に無理がたたって入院してしまった。
2週間安静と言われた。
僕はさすがにここで
「もう受験に切り替えるしかないか。」
と、思った。
その時、1年のころ顧問だった先生から突然電話が来た。
「久しぶり。入院したんだって?無理してたのか。…中略、、選手権はどうするんだ?」
僕は勉強に切り替えようと思いますと言った。
すると、
「俺は最後までやりきるのがお前だと思うぞ。」
と、言われた。
涙が出た。
明らかに良い結果を残せるような状況じゃない。
現実的にここからすぐプロにもなれない。
でも、ここで止めたとき、
この先の人生でもっと辛いことがあったときに
どう立ち振舞うんだ?
自分の信念を貫けるのか?
初めて現実に目を背けずに向き合い、
それに向かっていく覚悟を決めた瞬間だった。
そして、僕は選手権まで続けた。
結局、その年全国に行った帝京長岡に完敗した。
最後の挨拶で親や見に来てくれた人に顔が上げられなかった。
でも、自分として最後までやりきった。
その信念は突き通した。
この時貫いた信念はずっと残っている。
だからこそ、今も地元の仲間のほとんどがフットボールから遠ざかる中でも僕はフットサル選手として、サッカーコーチとして、フットボールを生業にしてやっているのだと思う。
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そして、そこから猛勉強をし、
第一志望ではなかったが、無事大学に入った。
「大学でサッカー部に入り、
そこからプロになろう。」
そう決意し、神奈川に引っ越した。
大変な長文になりましたが最後まで読んでくれた方ありがとうございました。🙇
第二章 フットサルとの出会い
大学編すっ飛ばしたい人は、、
スペイン編
Footballを通じて人間として成熟する。 これが僕の信条です。 僕は挑戦を続けます。 皆さんと胸を張って向き合えるような立ち振舞いをしていきます。 僕のその姿が、誰かの力になるように。