上野千鶴子さんの東大入学式式辞に寄せて
上野千鶴子さんの2019年4月12日の東大入学式での祝辞が話題になっている。以下の記事が全文を掲載している
上野千鶴子さん「社会には、あからさまな性差別が横行している。東大もその一つ」(東大入学式の祝辞全文)
https://blogos.com/article/370859/
長年の間、日本のアカデミアを志した女性が性別故に苦労してきたし現在も尚そういうものがあるのは事実である。自分はそんな中で勇敢に戦ってきた女性達の知己を得ることに恵まれている。だから社会一般より率先してアカデミアは男女共同参画に積極的に取り組む必要はあると思う。しかし、どう取り組めば良いのかは、社会的文脈に応じて答えが変化する問題である。被害の自覚と抗議も大事だが、それだけでは差別構造は寧ろ固定する。被害者意識を訴え権利拡張を求めるジェンダーの持ち主として女性全体が見られるのは、男女差別が苛烈な時代にはよりマシな状態だし過渡期には仕方がないと思う。しかし今の時代にそぐわしいかどうかは自明でない。上野千鶴子さんは被害のデータの扱いを主張の目的から逆算して取捨選択する事を公言して憚らない人である。こういう方法論は入学式の式辞として述べるほど優先順位の高いものとして、次世代のリーダーを志す若者に託す必要のあるものであるだろうか?
女性は女性差別に抗議する権利は勿論あるが、それをどこまで優先的に教える必要があるのかは問い直して良いと思う。そういう役割である限りそれを負うのは主に女性である。性差別的な言動を取る人をゼロにするのは男女ともに不可能だ。ある程度ジェンダー問題についての認識が広まった状況下では、異性が性差故に不当な不利を被っていないかを慮る性的役割を両性が共に担うのが、フェミニズムの男女に偏らない社会への定着のさせ方であると自分は信じているし、そのような形でフェミニズム思想を社会生活の中を実践する人達に感銘することも多い。ここに一つの知の実践の姿があるように思う。
知は己の栄達のためだけにある訳でない。苦労して勝ち取った知を自分の為だけに使わずに社会の様々な問題に使って欲しいという上野さんの主張には多いに意気を同じくするものである。しかし知をもって己と社会の問題に挑む事は自己満足であってはならない。知の営みはもっと継続的で忍耐に満ちたものであり、その営みが社会の利益になるような実感を、社会が何度も繰り返し経験したからこそ、現在の社会の知への信頼と期待があることを忘れてはならない。知的活動はすぐさま結果に結びつきにくい。しかし、それは結果的に社会を良くする目的意識を放棄して良いと言うことでは全くない。自分は物理学とい基礎科学への奉仕を願う者であるから、そこは特に肝に銘じたい。
社会的な問題が存在するとき、はじめに社会的な現象が取り上げられる。それはとても悲惨だったり理不尽だったりして、少なくともその事象そのものについては嫌悪感や怒りなどのもどかしい感情を共感できるものである。そうでなければ社会問題として認識されないであろう。そうした問題を取り上げるのが問題提起である。問題提起は社会問題の解決に至る重要な第一歩である。
しかし、問題提起だけでは社会問題は解決しない。解決方法の選択次第で問題が結局継続したり悪化したりする事は、歴史を振り返れば明らかに思える。国の国王をはじめとした権力者の暴虐が激しければ、革命によって王を倒すことが歴史上しばしばあった。革命は殆どの場合血なまぐさい過程を伴うが、それでもその価値があるからこそ指示されるのである。革命の結果どうなるかは古くは別の者が王の立場を担うことが多かった。新しい王は優れた王であり善政が敷かれることも多かったが、人間の寿命という避けられない問題のために、権力継承はいずれ行われて、だんだん元の木阿弥に戻ってしまう。そのような歴史は枚挙に暇がない。科学的な学説であったはずの共産主義が資本家による搾取を見出したとき、どれ程に悲惨な歴史が展開されたかを、知をもって社会を改善せんと願う者は繰り返し嘗胆すべきだ。
問題の悪化や繰り返しをなるべく防ぐ解決方法を考えるのも、知を頼んで社会に臨む者の責務である。王を倒して別の王が立つだけでは、権力継承の問題が発生して、同じ問題が繰り返される。更には王の代わりに一般労働者たるプロレタリアートの国を作ったとしても権力は自然発生し、やがて一部の指導者が強権を発動し、同胞を豊かにするための社会の効率も同胞の生命さえも軽視して、権力維持に躍起になる姿を知ってしまった限り、そのような方法は避けるのが賢明に思える。社会を変えるには力が必要だが、その力を一部に集中させず分け与え、力を獲得する努力をして力を発揮するに相応しい人物を、力を発揮できない人も含めて皆で選ぶ過程が必要なのであり、民主主義国家が権力継承における悲惨を避けやすいのはその過程によるものであると自分は信じている。
男女差別を到底看過できないとして、問題提起をする。ではどのように解決策を選択するのかという問いにも、このやり方は参考になると思う。男女差別の問題を提起し、アファーマティブアクションを含めて女性に権力を与え或いは、支援するための仕組みを作る。こうして女性に力を与えていくことは必要なことであった、そうして与えられる物が女性に集中するのは当たり前のことに思えて当たり前でない。持続的な解決を目指すのであれば力を分け与えることである、男性が性差故に苦しむこともある。社会の最底辺とされる層の構成員の男性の割合はかなり高い。女性が弱者であったときと同じように弱い立場から脱出する力を努力により獲得する権利を保障すべきである。また、そうした立場の弱い男性への侮蔑も女性へのセクハラ発言と同等の制裁の対象として良いはずだ。男性が男女差別の解決策に不満を述べたい事もある。女性は政治に口を出すなと言われた時のように黙らせるべきではない。男女平等の果実はこのように分け与えねば、男女平等の仕組みそのものへの不満が蓄積し、やがて解決策であったはずの物が解決策にならなくなってしまう。
最初の方で最初は女性差別を無くすための運動であった男女平等の運動を、少なくとも建前の上では両性に均しい理想を掲げて実践する人を知の実践とであると個人的に評価したのはそういう理由からである。性差があるから男女の内情も違う。本音も男女で違って当たり前である。しかし、それを理想として共有するときには、理想は人に要求する物でもある以上、差を設ければ火種になる。
そうした問題提起に留まらない解決指向の方法論がフェミニズムのみならず、経済格差や人種や出自に関する格差の問題等等に無辺に広がっていくことを願いたい。異性に対する創造力と同様に、世界中の多種多様な人々への想像力を鍛える場所としてアカデミアはとても恵まれた場所である。そのようなフェミニズムの男女問題にとどまらない発展のさせ方こそ、個人的には次世代のリーダーを志す若者に伝えたいことと思っている。
注意: 何度か加筆修正をしながら書いています。編集記録が残っているはずですが、閲覧出来ない場合はご連絡ください