呪術の使い方、教えます(?)②
「呪術の使い方、教えます(?)①」の続きから始まります。
トーテムの話に向かう。
「トーテムポール」はご存知だろうか。
ネイティブ・アメリカンの、なんか動物が描かれている、アレである。
トーテムポールは民族のグループ分けに使われている。
例えば犬族は「犬トーテムポール」を持っている。
猫族は「猫トーテムポール」を持っている。…という感じ。
これは文化人類学史上の謎の一つであった。
近代ヨーロッパ人はこう思ったのだ。
「わざわざグループ分けをするなら、きっとなんかしら、有効な理由があるはずだ」
これを「機能主義的説明」と言ったりする。
なんか機能があるからわざわざグループ分けしてるんじゃない?と。
例えば学校でクラスを分けるのは、そのほうが色々効率が良いから、みたいな感じで。
機能主義的な説明としては以下のようなものがある。
犬族の人たちは犬を神聖に思うので、犬を殺さない。
猫族の人たちは猫を神聖に思うので、猫を殺さない。
…というように、それぞれの動物を神聖視することで乱獲を防ぎ、動物の絶滅=食糧難をあらかじめ予防した、予防できた民族だけが生き残ったのではないか?
…これは実は説明になっていないのが、わかるだろうか。
「トーテムを消滅させた結果、実際に動物が絶滅し、その民族は食糧難に陥り、力を失いました」という実験結果でも得られない限り、妄想と一緒なのである。
そしてそんな実験は、不可能なのだ。
他には、こんな例もある
昔の日本のお話。
祇園神社の氏子さんは、きゅうりを食べない。
理由は「きゅうりの断面が祇園社の御紋に似ているから」
これは近代人の科学的な視点からすると「は?」である。
不安になっちゃう解答である。
似ていても食えばいいじゃん。
なんだかすっごいマジカルなことを言われているような…。
こういう、近代人が理由に納得できない思考法のことを
近代人は「呪術的思考」と名付けているそうだ。
近代人としてはそこに機能(論理)がないと納得できないので
機能主義的に説明しようとした。その結果が以下である。
「祇園社では夏にお祭りがある。夏にお祭りがあるのにきゅうりを食べていると体が冷えてお腹を下してしまうので、祇園社の氏子さんはきゅうりを食べないのである!」
どうですか。
かなり苦しいですよね。福永はここでちょっと笑っちゃいました。
近代人は呪術的思考をみると不安になる(=納得できない)ので、機能主義的な説明を施したがる傾向にあるんです、が、物によっては上記のようにめっちゃ苦し紛れの説明しかできない、ということがある…。
そんなふうに「トーテムポール」の存在は機能主義的な説明が通用しない、一種の「呪術的思考」だと思われていた、というのが文化人類学史上の謎と言われていた所以である。
それに対して構造主義の父・レヴィ=ストロースはいう。
「トーテミズム(トーテムポールをつかったあれこれ)は、存在しない」
「あると思い込んでいるのは、近代人の勘違いである」
西洋近代人的思考の人、まあつまり、今の我々。
私たちは科学を使って物を考える。
科学にとって大事なのは。
「抽象的な概念を使うこと」
例えば
犬・猫・狼 = 具体的な概念 だとしたら
動物 = 抽象的な概念
個別の「具体的なもの」をなるべく排除して
様々な状況にピッタリハマる「原理」「絶対的な共通項」を探す。
それが近代人の「科学的な思考」である。
一方。
ネイティブ・アメリカンはトーテムの動物を一つの「象徴」「アイコン」として捉えている。
民族によっては300以上の動植物の名前を言葉として持っているにもかかっわらず、「動物」や「植物」というような「カテゴリー名」にあたる単語を一つも持っていなかったりもする。
彼らにとっては。
「その犬」や「その猫」といった、それぞれ個別の「そのもの」が大切なのだ。
具体的な、そのもの。
前話で出てきた「グー」と「キツネ」のように、交換可能な存在ではないのだ。
だから「動物」や「植物」のようなカテゴリーで総称するような整理整頓方法も、しない(もっていない)のである。
ここも若干、直感に反する、わかりにくいポイントかもしれない。
さて、彼らはそこに隠喩(メタファー)と換喩(メトニミー)を使って意味を与える。
隠喩(メタファー)とは
白雪姫 : 白い肌を持った女の子→白い雪に似ている という名付け
換喩(メトニミー)とは
赤ずきんちゃん :赤いずきんを被っている、という特徴の一部を使った名付け
みたいなこと。
個別の動物や植物、物、できごとに
隠喩と換喩をつかって意味を結びつける。
これが「呪術的思考」の正体、基本構造である。
例えば。
黒インコトーテムの人たちはお祭りで死を司る担当に。
白インコトーテムの人たちはお祭りで生を司る担当に。
というような役割分担があるのだそうだ。
黒インコそのものが「死を司る動物」なわけではない。
インディアンたちが、隠喩と換喩をつかって意味を与えたのである。
そして。
隠喩や換喩で意味を与えると言う行為は。
死を司るグループ←(なんらかの線引き)→死を司らないグループ
という恣意的な線引きをして、二項対立を生み出す。
そうして物事を整理整頓する、という「構造」をしている。
我々の科学的思考では、どうだろう。
論理を使って具体性を排除し
つまり科学的な線引きをして、二項対立を生み出し
物事を整理する。
論理的なもの←(科学的な線引き)→論理的じゃないもの
近代人の「科学的思考」と
伝統文化の「呪術的思考」は
実は全く同じ「構造」から、異なる発展を遂げただけなのであった。
それはつまり、前話で例示した、じゃんけんとキツネケンと、同じ。
「科学的思考」と「呪術的思考」は
「グー」と「キツネ」の関係に近い。
それらは全く異なる物ではあるのだが
じゃんけんとキツネケンの「構造」自体は同じであるように
近代人と伝統社会の民族の、思考の「構造」自体は全く同じだった、のである。
…実は前回色々あってすっ飛ばした「近親相姦タブー」のところで。
先史社会の近親相姦ルールをよくよく調べてみると
当時西洋で最先端の数学的知見であった「群論」の「クラインの四元群」と当時最も遅れていると思われていたカリエラ族の婚姻システムは数学的に全く同じ構造である、と証明できてしまったらしい。
(数学はもう、福永にも全然よくわかんなかったので「ふーんそうなんだ」と思うしかないのだが)
結局。まるで異なるように見える文化も「同じ構造」から生まれる以上。
ある程度「似通ってくる」
言い換えると「ある程度限られたパターン」しか導出され得ないのである。
となると。先進だとか、遅れているだとか。
それはいったいなんのことか?となってしまう。
近代人が近代科学を使った思考で見る場合、トーテムは「人類史上の謎」である。
でも、彼らが隠喩や換喩を使って意味を持たせたトーテムを扱うことは、我々が具体性を排除して論理的に意味を持たせた科学を扱うことと、構造上はなんら変わりのないことなのである。
科学の世で「科学的である」ということに信頼を置くように。
隠喩の世で「呪術的である」ということは確信を持って信じられている。
単に、異なる思考方法をしている、それだけである。
科学的思考と呪術的思考の間に優劣はなく、同じ構造から生まれた派生形でしかなかったのである。
さて。
近代哲学の最終形と名高いサルトルさんの「弁証法+実存主義」
(前回を参照)
弁証法に則って考えるならば
「伝統社会で暮らすインディアンたちも、論理的に思考を身につければいずれは成長して、近代社会のように発展していくはずだ」
という結論になるはずである。
「近代社会は高度に進んだ優れた科学を持っており、インディアンたちは遅れている。それは論理性や科学の欠如である。」
「論理性や科学は、歴史を繰り返すうちに遅い・早いの差はあれ、いずれは必ず身につける物である。」
弁証を繰り返すうちに「真実」に近づくのならば、そう考えるべきである。
ところが「構造主義」はこの結論を真っ向から論破してしまった。
「近代の科学思考と、インディアンの呪術的思考は、同じ構造から出たべつの形に過ぎず、そこには優劣の関係は一切ない。」
インディアンの思考法を「呪術的思考」と感じるのは
近代人が近代科学という思考法の中に「無理矢理はめこんで」考えようとしていたからだ。
インディアンの方から見れば、近代人の論理的・科学的思考のほうにこそ「呪術的だな〜なんでそんな、関係のない物を結びつけて整頓してるんだろう」という感想を抱くのかもしれない。
構造主義についてのぶっ飛ばし説明はこれにて完了である。
おつかれさまでした。
福永は「呪術の使い方、教えます(?)①」の中でこんな感想を書いていた。
福永は
「そんなに具体性を排除していっても」
「結局個々人は、個として、生きていかねばならない」
「だから論理性に偏重したクリーンすぎる部屋は窮屈である」
「だって、個々の主観・感情を持たない人間はいないじゃない」
と思う。哲学的に言うと、実存主義、ということになるのだろうか。
あんまりカテゴライズされたくはないけれど、多分そうなるのだろう。
そして、非科学的なために身狭な思いをする物たちの中に、ビューティフルなものがいくつもあることを知っている。
例えば、音楽だって、もしかしたらそう。
個人的には、音楽の科学的側面と、呪術的側面のバランスの良さが大好きである。ちょうど心地良い塩梅。
だから、自分の中にある種「構造主義的な」発想は、以前からいくらかあった。直感として。
けれど、それを言語化することができなかった。
そのため構造主義に出会えて、大変気持ちの良い思いをした。
そして、自分で想像している以上に、弁証法/科学主義など「近代的思考」に自分の常識がのっとられている、と言う事実にも気づいた。自覚したのだ。
別の角度から見ることで初めて気がつくことだと思う。
これは、普遍の常識なんかでは、全くない。
このnoteでも過去には「成長など存在しない、あるのは変化だけだ」なんて書き殴ったことがあったくらいなので、どことなく弁証法的な常識観に若干の違和感を覚えていた気はする。一方で、全くの間違いである、とも今のところ思わないのだけれど。
とにかく、それにしたって、かなり多くの物事について、無意識に、自覚なく、違和感なく、近代西洋的な考え方を適用していたことに気付いた。
さて。冒頭の飲み会の話に戻ろう。
福永は友人の振る舞いについて、ある意味、福永の目線から見て「呪術的」だと感じたのである。
そして、福永の頭をフル回転させて、福永の思考パターンで、それについて考察しようとした。
近代科学&インディアンの関係と異なる点があるとすれば…
福永はその「呪術的」に見える振る舞いを、羨ましく思っていた、という点だろうか。
劣っているとか遅れているとはもちろん、1ミリたりとも思わなかった。
だが自分とは異なる存在である、ということには気付いていた。
そして、その姿は輝いて見えた。
逆に。
福永の羨ましさや苛立ちの種は、友人からしたら呪術的な、意味不明のものだっただろうことも想像できる。
それぞれの人間個人にはそれぞれの経験からなるそれぞれの思考パターンがあり、それぞれにとって納得度の高いものを収集していく。
だから、福永の思考法では「どうも納得がいかないこと」について、友人は「極めて疑いなく納得している」ということが…
同じ日本の同じ時代に生きていたって「あって良い」のだ。
もちろんその逆も然りである。
民主主義、科学主義、論理主義…概して「同質を求める」のは社会機能としても有効なことなので、真っ向から批判したいとは全く思わない。
だが一方で、我々は具体的で、主観的で、感情的な一人一人の人間である。
忘れてはいけない、重要な要素を、時々忘れてしまう。
望みはある。
構造主義が極めて論理的に事実を積み重ねた結果、論理の通用しない呪術に対しても一定の理解を深めることができた、という事実である。
論理的に考えた結果、論理的にはわからないということがわかる。
ネイティブ・アメリカンの世界に、我々には一切理解できない形で「隠喩と換喩を用いて、科学的思考について一定の理解を示す」思考方法が現れる可能性は大いにあるだろうが
「科学的思考を用いて構造主義に行き着く」というものの考え方は、科学的思考をもち、それを突き詰めようと思える現代の我々の特権だと思うのである。結論は同じであろうが、プロセスは異なる。
とはいえ。
まあなんだか、こんなふうに安易にライフハックに繋げることや
自分と友人のような個人の人生についてそのまま「構造主義」を適用する場合に、学術的な厳密性を保てるかどうかについては…
絶対に、疑問を持った方が良い。
Youtubeで物理学なんかのラフな小話を見ていると…
福永でもわかるくらいの「エセ物理学」に、しょっちゅう出会う。
それは例えば、二重スリット実験なんかで、ミクロの世界の物理は「直感に反する」ことを利用して、謎の(それこそ呪術的な)星座占いみたいなものに繋げて、悪い金を稼ごうと思っている(ように福永には見える)チャンネルだったり、である。
だから疑問を持つべきだとは思う。思うのだが。
少なくとも構造主義というものの認知に、非常にラフではあるもののざっくりとは成功して、改めて見たこの世界では…
福永は、自分と全く異なる意見や納得・ふるまいを持つ人に対して、今までよりも包容力を持って接することができる気がするのである。
勘が当たる人がいる。
勘が当たったことのない福永からしたら呪術的なことである。
でも、その人にとってなんらかの恣意的な形で概念を区分し、整頓した結果としてその直感に「納得」と「信頼」を置いていることは。
福永には理解はできないけれど、結局のところ福永が一生懸命考えて得た納得と同じ構造から生まれたもの。
その差はせいぜい「グー」と「キツネ」の差であって。
そうであるならば、その人の「納得度」に対しては一定の共感を持つことができるように思うのだ。
福永には全く話がわからない場合にも、リスペクトを持って、共感できる。
もう少し簡単に言うならば。
世界が広がって、そのおかげで今よりも少し優しくなれそう。
そして福永の中にも、人から見たら「呪術的」に思える発想や魅力や軽蔑に値する観念が、なんだかんだたーーっくさんあるんだろうな、と言うことも想像できる。
案外この、多様性を重んじる風潮のある現代と、「構造主義」は相性の良い思想なのではないだろうか。
というわけで、魔法が使える友人と、構造主義の話はここでおしまいである。
客観的に見ると、誰もが呪術使いなのだ、と。
福永はこうやって、常識がグリンと音を立ててひっくり返る瞬間のスリルが大好きだ。
思考のバンジージャンプ、といっても良い。
なるべくならば命綱と安全装置の点検だけは怠らず。
その上で、もっと色々な崖から飛び降りてみたいものである。
これからは友人と話すときに、その魅力に対して、あるいは不思議な怒りに対して、福永の思考回路の枠から飛び立って、広い視野で想像や論考を重ねられるかもしれない。
そうであれば... この小さなきっかけは未来、決して小さくない差として明らかになりうると思う。
そう思うと、せっかくならぜひ…
noteに書いて、共有したい、と思ったのである。
ちょっと読むにも書くにも難しい内容でしたが、どうでしたか。
前後編18000字ほどの長文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
本日はこれでおしまいです。
以下は、路上ライブで言うところの「ギターケース」のつもり。
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