身体障碍者になった経緯(前編)
こんにちは。
2021年の一月に大けがを負ってからはや一年。
記憶が新しいうちにこれまでの経緯を文字に起こして振り返っていこうと思う。
1/6(事の発端)
アメリカに住んでいる彼女と小旅行がてらにミネソタ州・ダルースへ訪れた。この時期のミネソタは氷点下20℃を下回ることも多く、湖もカチコチに凍るほどだった。
しかし、その日の気温は外出できる程度には暖かかったので(といっても氷点下3度くらい)僕と彼女はスキー場へ出かけにいった。スキー場の雪は前日のブリザードの影響もあってか、固め。
スキー場の看板を見て一番簡単そうなコースを滑ることにした。丘の頂上から中腹までは割とスムーズに滑ることが出来た。
しかし、中腹あたりから斜面が急になったので思わずブレーキをかけ、転ぶ体勢になった。転んだ時の記憶は定かではないが左ひじから転倒し、おそらく左ひじを固い氷の斜面にぶつけたんだと思う。氷ではなくパウダースノーだったらここまでの惨事ではなかっただろう。
1/7(1回目の手術)
ミネソタ州ミネアポリスに戻り、そこの病院での診察でレントゲンを撮影し、初めてひじの状態を知る。モンテジア骨折。
応急の処置が必要だという事で、当日に手術を行った。結果左腕の骨を大きなプレートと10本のねじでとめる処置を施された。そして病院からはその日のうちに退院するようにと言われた。(アメリカは日本でいう国民皆保険制度がなく、医療費が高額なのですぐに退院させられるケースが多い)
同日の深夜3時頃、急に腕が痛み出した。想像を絶する程の痛み。腕が破裂するのではないかと思うほどの激しい痛みが左腕全体に走った。その痛みは約四時間続いた。かの有名なアメリカのなんでも効く薬(Tylenol)を大量に摂取すると、翌朝には症状は改善していた。ただその時の私は、その痛みが後遺症に関わる重要なサインであったとは知る由もなかった。
1/22(2回目・3回目の手術)
医者との診察があった。
神妙な面持ちの医者から告げられた言葉は、「あなたの腕にはコンパートメント症候群の症状がある」と。
当然聞いたこともない言葉だったので意味が分からなかった。その場で検索するとこのような記述が。
つまりは腕の中で組織がパンパンに腫れあがり圧力の逃げ場がないため、周辺の筋肉や神経といった組織に通っている血液循環を締め付け壊死させてしまうという状態らしい。
治療方法として圧力を逃がすための筋膜切開があり、本当なら症状が出始めて24時間以内に処置を行う必要があるそうだが1/22はすでに受傷してから2週間たっているためほとんどの組織が壊死している可能性があると告げられた。
1/7の痛みが出た時点で病院にいれば、すぐに対応できていたこと。痛みの症状が出始めたときに病院の看護師に電話を掛けたが、事態を深刻に受け止めてもらえず対応を拒否されたこと。
これらのことからやり場のない怒り・悲しみが湧いてきた。
これがアメリカの医療事情だという事は重々承知している。けど、左手の機能を失ったことには変わりないのでどうしようもない怒りで震えていた。
その結果合併症としてフォルクマン拘縮という症状が現れた。
後編ではフォルクマン拘縮に対する処置の経緯について書き留める。
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