宗教の光と闇:原理主義的キリスト教二世が禅と修験道の修行を通して学んだ事
これまで何度もこのテーマについて書こうと試みたが、当時の自分にとっては、このトピックは複雑に絡まりきった釣り糸のようで、どこから手をつけて良いのか分からなかった。どれだけ多くの書籍を読み漁り、答えを求めて人々に尋ねても、この難題に対する明快な答えは見つからなかった。それでも、この問題を丁寧に紐解き、人に語れるようにならなければ、将来どうするのかなんて考えられる状況では無かった。これは相当苦しい道、ひとりぼっちの道になるだろう。しばらくは誰にも理解されず、一歩ずつ歩むしかないだろう。そう覚悟を決めて、当てもなく自分を見つめ続け、どこに答えがあるのかもわからないまま学び続け、今ようやくこうして一つのまとまった文章を書くことができそうな気がする。
さて、どこから始めようか。まずは自分のこれまでの人生を切り口に、私たちがどのような歴史の流れの中で生かされているのか、そして私たちがどう進んでいけば良いのか。その輪郭が少しでも見えるようなものを書ければと思う。
生い立ち
自分は原理主義的キリスト教会に生まれ育った宗教二世という背景を持つ。「神に遣われし使徒」として生きてほしいと「遣徒」と名付けられた。キリスト教は子供時代の割合の多くを占めた。生活の全てがイエス様中心、信仰中心に動いていたと言っても過言ではない。「イエス様第一、安全第二」が家訓であった。宗教と共に育つとはどういうことなのか、書けることは沢山在るが、ここでは詳細を省く。気になる方は宗教二世の体験談をいくつか読んでみるのをお勧めする。
神の家族に生まれた一つの命として自分には特別な役割があり、周りの人々と違うのは当たり前だと言い聞かされて育ったので、当時は宗教に対してそこまで反発心は感じていなかった。だが、学校でも、教会でも、また自分自身に対しても、常に自分の一部を隠したまま過ごすことにどこか違和感を感じていた。自分が自分らしく存在できる場所が身近にはどこにもなくて、どこか新しい所へ行かなければという思いに駆られていた。そんな時にUWCの事を知り、調べれば調べるほど、どうしてもここに行かなければならないと強く思うようになった。まさか受かるとは誰も思っていなかったが、晴れて合格し、16歳でUWCアルメニア校へと留学することになる。
アルメニア留学時代
留学してしばらくは、階段を降りている時や、山を眺めている時など、ふとした時に「ああ、遂に自分は自由なんだ。」と感動して涙が溢れてくることがあった。当時はなぜそんな単純な事で泣けるのかよく分からなかったが、今思えば宗教と日本社会の狭間で相当抑圧されていたからなのだろう。
UWC在学中は毎日が冒険と挑戦に溢れた素晴らしい2年間であった。UWC生活についていくらでも書くことはできるが、ここでは割愛する。宗教二世として、多様な人々や価値観が存在するUWCという環境で過ごせたことは本当に大きな意味を持っていた。だからこそ、UWCを必要としているかもしれない人にその存在を知ってもらうため、少しでも助けになればと思って微力ながら今も活動している。
高校生の頃は将来の夢は物理学者兼ミュージシャンになる事だった。宗教的な環境で育つ中で、真理を探究することへの興味が人一倍強かったが、当時の教会の教えでは全く満足できず、科学、特に物理こそ真理を解き明かしてくれるものだと思っていた。そして、教会でソウルフルなゴスペルを聞いて育つ中で、自分もカッコいい演奏ができるようになりたいと思っていた。
しかし、その夢に向かって歩むのはどうも違和感があった。頭で考えたら十分面白い将来の夢だし、自分にはそれに向かっていくだけの能力があるという自信もあった。だが何かしっくりこない。その何かを見出さないまま、大学で専門性を磨くのは違う気がすると思って、ひとまずギャップイヤーをとることにした。
ギャップイヤー中はアルメニアで時間を過ごし、アルメニアの伝統楽器ドゥドゥクの師匠と、キーボード・音楽制作の師匠のもとで、本格的な音楽修行をしながら、家庭教師のバイトで生計を立て、アルメニア語を学び、時に旅に出る生活をしていた。今思えば結構充実した暮らしをしていた。
そんな中、コロナが蔓延し始め、異国の地での隔離生活が始まった。同時にアゼルバイジャンとの間に戦争が勃発し、アルメニアにとっては大変な時期を現地で過ごすこととなった。戦地に行った友人を亡くし、もはや戦争はどこか遠い所で起きている他人事なんかではなかった。
パンデミックの最中には自分に向き合う時間が増え、またエホバの証人の二世の体験記などを読む中で、やはり宗教の事を紐解かなければ本当の自分の思いは見えてこなさそうだという事がわかってきた。自分の育った環境はいわゆる「カルト」では無いが、しかし「カルト二世」の心情には共感できるものが多くあって、一体どのように自らの生い立ちを理解すれば良いのか分からなかった。(今は「原理主義的キリスト教二世」と説明することにしている。ここにどのような思いが込められているかはまた別の機会にでも書こう。)
同時期に神秘主義やニューエイジの思想にも出会い、どんな宗教もその根底には何か深い智慧が隠されていることを理解し始めた。まずはあらゆる宗教のことを深く学んでその真理とやらを明らかにしたいという思いと、その旅路を辿ることで自らの宗教的生い立ちにも整理をつけられるのではないかという希望が芽生えた。
ブラウン大学にて
大学が始まると一番最初に取ったのは禅仏教の授業だった。生まれ育った教会では、霊的次元において神とサタンの対立構造が存在すること、そしてキリスト者は霊的戦いに従事する事が使命であると教えられ、仏教は本当の神から人々を惑わすサタンの策略であると教えられて育ったので、正式に仏教を学ぶというのは自分にとっては大きな冒険だった。とは言っても、実際学んでみると教義も実践も非常に興味深く、すぐにその他あらゆる東洋宗教の虜となった。在学中のブラウン大学はオープカリキュラムという仕組みを採用しており、どんな授業でも自由に取ることができる。参考までに、これまで履修してきた授業の一部をここに列挙する。
Zen: An Introduction 禅入門
Music and Meditation 音楽と瞑想
Sensing the Sacred 五感を通じた神聖さの体験
Introduction to Contemplative Studies 観想学入門
Music and War 音楽と戦争
Science of Consciousness 意識の科学(脳神経学)
Your Moment of Zen 禅のひととき(仏教の世界的普及について)
Tai Chi, Qigong, and Tradition 太極拳・気功と伝統
Sound, Song and Salvation in South Asia 南アジアにおける音、歌、そして救い
Self Transformation and Transcendence in Later Daoist Contemplative Traditions 後期道教観想伝統における自己変容と超越
Mindfulness and Movement マインドフルネスと動き
それぞれの授業で取り組んだプロジェクトやエッセイなど、どれも深い思い入れがあり、授業の名前をリストするだけでも様々な思いが込み上げてくる。
Contemplative Studiesという専攻で、小さいながらも活気のあるコミュニティの中、教授たちとも個人的なレベルで深く関わる事ができ、学びの環境としては申し分のないものだった。だが、学べば学ぶほど宗教の光の側面はより繊細に見えてきても、自分が体験した宗教の闇の側面についての理解は深まらず、逆に思考と感情の発達の乖離が進んでいくだけだと感じるようになった。
やはり頭で真理について思い巡らすだけではなく、実践が必要なのかもしれないと思い始めた。禅を学び始めてからは坐禅に熱心に取り組んではいたが、より本格的な修行の必要性を感じ、教授に日本の修行道場を紹介してくれるようお願いした。するとなんとアルメニア人が修行しているお寺があるという事でそこで修行させていただけることとなった。
修行に行く話が固まってきた時、予想はしていたが両親や教会からの猛烈な反対に遭った。それはそうだろう。彼らが人生をかけて敵対してきた宗教に身を委ねようとしたのだから。これはまるで戦時中に敵国の軍隊で訓練を受けるようなものだ。スパイとして入り込むならまだしも、敵国の主張に魅力を感じて行くのであれば全力で止められて当然だ。
本質的には禅の世界とキリスト教の真髄には矛盾はない事を説明しようとしたが、全く話は通じない。でも仕方ないと言って引き下がる訳にもいかない。真に自分らしく生きるためには、どれだけ周りに反対されようと揺るがない信念が必要な時もある。とはいえ、批判に晒され続ける中で精神的にも疲弊し、胸の痛みを恒常的に感じるようになり、学業にも集中できなくなっていった。
内側からぶすぶすと突き刺されるような鋭い痛みに悩まされ続け、酷い時には坂を登ることすら出来ないほど苦しく、痛みに涙を流しながら、友人に付き添ってもらって何とか耐えられるような日もあった。これは感情的なものだと直感的に理解していたが、周囲の勧めで念の為病院にて検査してもらうも、予想通り特に身体的には問題はなかった。
こんな状態で修行に行けるだろうかと迷ったが、逆にどうしたらいいのか、当時思いつく限り試せることは全て試したし、頼れる人にも頼り切った。森田療法を開発した森田正馬も、胸の痛みに苦しんだが死ぬ気で勉強に励んだら気づいたら治っていたという話を読んで、さらに彼の治療法は禅に影響を受けていることも知った。一人の禅僧に「胸の中で火が燃えているようだがどうしたら良いか」と相談した所、「それならば灰になるまで燃やし尽くせばよかろう」と言われ、よし何が何でも死ぬ気で修行に賭けてみようと決意を固めた。
地獄の修行
紆余曲折はありながらも道場での生活が始まったが、そこでの日々はまさに地獄だった。もちろん修行はものすごく厳しかったが、それ以上に自分の心の状態が地獄そのものであった。新しい環境に放り出され、誰にも頼れないままただ一人自分の心の苦しみに向き合うしか無かった。その上、睡眠時間が削られ、生活の細かなところまで細かいルールに縛られ、常にサバイバル状態に置かれていた。完全に発狂して精神病棟に送られるか、何とか自分を立て直すか、その二択しかないと思うほど常にギリギリの状態で、文字通り死ぬ気で修行生活を送った。
作務で掃除をしたりして体を動かしている時はまだマシだが、坐禅の時間は自分の心から逃れることのできない生き地獄だった。塹壕で突撃の合図を待つ兵士の気分で禅堂へ入るのを待ち、坐禅が始まると生きたまま鬼に身体中を食い荒らされるような苦しみの中を彷徨い、ふらふらになって部屋へ帰って声を押し殺して泣いた。
ある修行僧に「ここで座禅をしているとこれまでに経験したことのないほど苦しみに襲われてしまうのですが、どうしたら良いでしょう。」と尋ねると、「心の奥には押し入れがある。これまで見ないようにと押し込めてきた全てがそこに入っている。ここではその扉が開いてどんどんゴミが出てくるけれど、その一つ一つを眺める必要はない。ただひたすらに息を吸って、吐いて、炎の中にゴミを一つずつ放り込んでいくんだ。」という言葉をいただいた。押し入れから湧いてくる鬼たちを、どうやったら燃やせると言うのだろうか。
如何にしてこの終わり無き地獄から脱すれば良いのか悩んでいると、ある時ふと禅堂の周りに大きな鬼瓦がいくつも置いてあるのに目が止まった。そうか、ここは鬼になって良い場所なんだ。そもそも天下の鬼叢林と名高い古刹である。鬼に食い尽くされて苦しいのならば、地獄で最強の鬼になって他の鬼の頭を棍棒で吹っ飛ばせばいいのだ。そう気づいてから文字通り心を鬼にして、全力で心の闇と格闘した。気分はヒンドゥー教の神カーリーだ。
ものすごい形相をして座っていたので、ある修行僧から「修行中はいいけど、お寺の外では絶対あの顔しちゃダメだよ。見た人全員逃げて行くから。」と言われた。世間でこのとてつもない苦しみを受け入れられる場所がどこにもなくても、この道場では全力でその苦しみに向き合うことが許されているのがありがたかった。
そうして地獄を荒らし切って、焼け野原が残った。最後には自分も火に飲まれて焼け死んだ。そしてある時、灰の中から不死鳥がぱちっと目を覚ました。そこからもまだ困難は続いたが、これまでとは違う何か内なる強さがそこにあった。
ここまでが前半一ヶ月に起こった出来事のほんの一部。後半一ヶ月の参禅修行の様子はこの記事に書き残した。
当時の感情の機微をここで全て書き表すことは不可能に近い。前世間違いなく修行していただろうという不思議な確信があって、永遠にこの修行から逃れられないのかと恐怖したり、身体中で暴走する気の流れをコントロールする練習をしたり、時間が圧倒的にゆっくり流れるのを感じたり、生活の一瞬一瞬が壮大な真理を物語っているかのような感覚を覚えたり、指を切って出血して失神しかけながら言葉にできない深い洞察を得たり、ある場所に近づいたら空間が歪むのを感じたりと、不思議なことがたくさん起こった。これらが修行によるものなのか、精神的に不安定だったからそう感じただけなのかは分からないし、分かろうとしなくてもいいのだろう。ただ経験としてそれらは立ち現れては消えていった。
間違いなく一つ言えるのは、数々の困難に遭遇したが、何とか修行をやり切ったという事だ。この二ヶ月はこれまでの人生で一番、精一杯生きていると感じた時間でもあった。人間として生きるとはこういうことなのかと思い出させてもらった気がする。
大学の夏休みを利用した修行を終えて大学に戻ったが、周りの人達とあまりにも住む世界が違いすぎた。アメリカ人の友達に夏休みに禅寺へ行ってきたと言っても、「Oh、禅リトリート、イイね!とっても心が落ち着きそうだ!」と言われるのが関の山で、死闘から生還したばかりだなどということは誰にも理解されない。自分でもまだ修行がどのような意味を持つ体験だったのかプロセスしきれてなかったので、うまく言葉にして説明することもできず、心の整理と学校生活を両立しようとしたが、それはあまりにも膨大なタスクだった。
その一学期はダンスの授業を三つと、電子音楽の授業と、声楽のレッスンというほぼ学業としての負担が無い科目選択をしたが、それでも日々しんどさが増していった。聖書にこんな一節がある。
修行で心の地獄を綺麗にしたと思ったのだが、いかんせん鬼の形相は道場に置いてきてしまったので、すぐにまた地獄が戻ってきた。しばらくするともはや文章を一ページも詠んだり書いたりすることができなくなってしまった。
健康上の理由による課題の軽減をお願いするために、以前からお世話になっていたカウンセラーに診断書を書いてもらったところ、複雑性PTSDを診断された。やはりこれ以上大学で何とかしようとするより一度療養しようということで、Medical Leaveという形で休学することを決断した。
休学
休学してしばらくはとりあえず引きこもって好きなように時間を過ごした。子供の頃に宗教上の理由により見ることが無かったアニメや映画など見まくったり、ゲームに没頭したりした。実際は、自分の心に向き合う気力もなくて、でも体を動かして何かをする気力もなくて、ただ力尽きるまで画面を眺めて一日が終わるのを待って、何とか一日を乗り越えて、それを繰り返していた。
やはり宗教の影響に向き合う必要があるという直感が強くあり、しかし宗教色の強い実家に居ながら進展するのは難しく、もう耐えられないと感じたため、一度家を出ることにした。と言ってもどこにも行くあてが無く、とりあえず東京の知人の元へ向かい、場所を変えながらもそのまま数ヶ月東京で暮らすこととなった。大都会の一つの塵として消え去ってしまえば自らの苦しみを忘れられるのではとも思ったが、向き合うべきものはどこまでも追ってきた。
この時の自分はどう足掻いても満たされない餓鬼道を彷徨っていたような気がする。かつて当たり前のように自分に備わっていた思考力、直感力、粘り強さ、内なる静けさなどにはどう足掻いても繋がることができなかった。どうしようもできない自分の弱さに打ちひしがれ、ただひたすらに悔しかった。
心理療法も色々と試して、カウンセラーの方にも大変お世話になった。しかし、対話の中で自分が直面していた悩みの次元まで深ぼるのはなかなか難しく、他人に期待するのではなく自分で向き合うしか無いと観念し、少しずつ少しずつ、這うようにして前に進んだ。
このままではダメだと思い、再び古の修行の伝統の門を叩くことにしたが、以前の禅寺の修行を耐えられる自信はなかった。そこで、大自然との関わりの中で繋がりを思い出す道としての修験道に惹かれて、ある山伏とのご縁をいただいて熊野へと向かった。
もはやこれが最後の頼みの綱だと思い、道場で三週間ほど修行した。修行の細かな内容についてはここでは省くが、回峰行、断食行、滝行、護摩行、法螺貝など、多種多様な行に取り組ませていただき、ここでも不思議なことが色々と起きた。足が痛くて何度か諦めようと思ったこともあったが、どんな時でも暖かく、時に厳しい師匠と、雄大な自然に見守られ、何があっても立ち向かおうという勇気をいただいた。
その修行を終えたのがちょうど一年ほど前のことだ。それから実家に帰ってきて、そこからまたしばらくゆっくり過ごした。どうやら生まれ故郷の愛知県田原市は、熊野の田原町という地域から来た人々によって名付けられたそうで、馴染み深い山にも熊野神社や蔵王権現が祀ってあり、もしかしたら自分の先祖の誰かは山伏だったかもしれない。そんな繋がりに思いを馳せながら、地元の山に足を運んだり法螺貝を吹いたりして行をしながら、少しずつ本も読めるようになって、英語の文献にも色々目を通すようになった。
宗教二世問題に関して、それまでほぼ日本語でしか調べたことがなかったのだが、海外では似たような問題提起はなされているのだろうかと気になって調べてみる中で、宗教的トラウマ症候群(RTS)のことを知り、これまでいまいちしっくりこなかったことが、目から鱗が落ちるように上手く説明されていた。言葉にならなかった苦しみにやっと名前をつけてもらったようで、一つ肩の荷が降りた。RTSについてはほぼ日本語で資料がない状態だったので、宗教二世問題が取り上げられるようになった日本でこの情報を共有することが自分の使命の一つだと思い、WikipediaやRTSに関する文献の翻訳に時間を費やした。以下翻訳した記事を貼り付けておく。今改めて読んでみてこの情報の重要性を再認識した。
少々長くはなるが、この記事の中に引用されている宗教トラウマサバイバーの声をいくつか抜粋する。ここまで書いたことが、実は宗教に苦しむ多く人に共通する体験であるということがわかるだろう。
こうして見てみると、修行中に地獄のような体験をしたのも不思議では無い。キリスト教では地獄の恐怖が繰り返し語られるので、潜在意識に刷り込まれた恐怖に向き合うプロセスとして、地獄を体験をすることで解放される何かがあったのだろう。もう地獄は怖く無い。前回地獄のビジョンを見た時は、全身が燃えるような苦しみを体験しながらも、滝行をする時のように手を合わせて、同じく地獄で苦しむ全ての魂が、必要なプロセスを経て解放されるように祈り続けていた。山伏の師匠にこう言われたのも思い出す。「地獄に落ちても心配すんな!俺が先に行ってサウナあっためて待っててやるからよ!」
今年四月ごろ、そろそろ動き出す頃だと思い、運転免許合宿に行った。自分のペースで暮らすことを一年以上続けていたので、社会的な場に出てシステムの中で時間通りタスクをこなすのは大変だったし、新しいことに挑戦するのは大きなストレスだったが、良いリハビリになった。そこからご縁で阿蘇の日本文化が体験できるカルチャーリゾート「鳴鳳堂」で住み込みバイトさせてもらったり、面白い人が色々集まるがプログラムの存在しない箱根キャンプというイベントに参加したり、二ヶ月の海外旅行に出て、シンガポールとマレーシアにて三日間の自転車の旅に出たり、アルメニアでUWCの10周年記念で大活躍したり、日本に戻ってきたら色々な所に遣わされて、色々な人と出会って、そうこうしているうちに2024年が終わろうとしている。
だいぶいろんなことを省いたが、大まかにはこんな旅路を通ってここまでやってきた。さて、この物語がどのように大きな歴史的な流れにつながるのか、本当に伝えたいところを今から書いていこうと思う。これは、先日高野山と京都を会場に行われたKUNI Summit 2024の中で改めて認識したストーリーの個人的解釈でもある。自分は宗教学者でも歴史学者でも無いため、独断や偏見に基づく部分も多々あることはご承知の上でお読みいただきたい。
日本の宗教的変遷
太古の昔から日本に住む人々は大地と共に生き、命の源に深く繋がる在り方を体現してきた。その霊性は神道、仏教を通して表現され、人々は大いなるもの、また一人一人の内に広がる神秘の世界との繋がりを思い出し、深める方法を磨き上げ、保ってきた。
歴史の針が進み、世界諸国との関わりを持つようになった時、キリスト教という宗教も日本に入ってきた。この宗教はこれまで日本に存在したどんな宗教以上に毒性と感染力が強く、国のあり方を脅かしかねないと恐れた日本は鎖国を決断した。
すこし寄り道にはなるが、キリスト教という宗教について少し語っておくとしよう。キリスト教は確かに多くの人に希望をもたらし、生きる意味を与え、深い智慧を授けてきた素晴らしい側面も持つ。しかし、RTSの記事を読んでいただければわかるように、多くの人に苦しみを与えてきた宗教であるのも間違いない。常に敵に囲まれ、民族や国家の存続が危ぶまれる時、その危機を乗り越えるために宗教が絡んでくると、そこ利用された宗教はどうしてもトラウマやシャドーを背負う。中東の砂漠で生まれ、その中でしぶとく生き残ったユダヤ教から派生して、さらに西洋の激しい歴史的な流れを生き残ったキリスト教は、これまで地球上で人類が生み出した宗教の中でも、最も背負うものが多い宗教体系の一つだろう。その宗教のシンボルが、十字架を背負い、磔の刑で一度死を経験するキリストであるというのは偶然ではなかろう。
そもそも宗教の本質的な役割は、description(説明)とprescription(処方)である。つまり、宗教には私たちが住むのは一体どんな世界であるのかという説明と、その世界でどう生きるべきなのかという実践的な勧めの両側面があるのだ。例えばキリスト教は、神によって創造された世界の中で、人間は原罪によって永遠の苦しみを味わうこととなったが、その罪を背負って死んで生まれ変わったキリストを信じることで、我々は救われることができると説く。仏教は、我々は煩悩によって苦に囚われているが、正しい修行を実践することで解脱に至ることができると言い、その中でも例えば禅は生きとし生けるものには仏性が備わっているが、それに気付かなくて我々は苦しむのだから、坐禅して本来の自己を見よと勧める。もちろん、ここに述べたのは概論で、同じ宗教の中でも大きな差異があり、我々一人一人に特有の宇宙論と救済論があると言っても良いかもしれない。
ここで、ちょっと待ったと言う声が聞こえてくる。説明と処方をするだけなら医学も同じでは無いだろうか?病気はこう言う理由で発症するのだから、このような治療をしたら良いというのと何が違うのか?心理学や経済学だって突き詰めれば同じことなのでは無いだろうか?宗教の何が特別だと言うのだろう?
人間は、物理的、生物学的、感情的、知的、社会的、といったあらゆる側面を持った存在である。そしてその一つに霊的側面というものも存在する。もちろん、宗教自体も多面的なのではあるが、宗教が展開する論理と実践の特徴は、我々の霊的側面を軸に置いていると言うことなのではないだろうか。
霊性とは何であるか。実に捉えどころのない言葉である。物質と精神を超越した所にある「それ」であり、言葉の手前、そして言葉を超越した所にある、「それ」を指すと言ってみたら良いだろうか。捉えどころがないからあくまでも宗教は「ヒントを示す」ことしかできない。「神」などの固定化された体系として「それ」を表現する宗教もあれば、神秘はそのままに言語化や体系化を避ける伝統も存在する。
おっとだいぶ脱線してしまった。宗教や霊性の事を語り出すと止まらなくなってしまうので話をキリスト教に戻すと、数々の国々が生まれては消え、情勢が常に混沌としていた中東や西洋では、政治が人々の心を同じ方向に統一できる宗教と結びつくことが生存戦略として優秀であったため、結果としてより人間の心を捉えやすい宗教的体系が何世紀もかけて完成されていったのだろう。
何世紀にも渡る民族同士の対立という歴史的背景を辿ってこなかった日本にとって、いくら神道的な寛容さがあるとはいえ、キリスト教の流入により、支配不可能な思想を掲げる人口が急激に増えたことに危機感を感じるのは当然のことだろう。結果的に二世紀以上も続いた鎖国は、賛否両論あるだろうが、大地に根付いた霊性を守るための知恵の体現であったと言っても良いのでは無いかと思う。
開国後、明治維新を経て日本が近代化するにあたって、神仏分離、廃仏毀釈、また修験道禁止令などの動きがあり、日本という一国の歴史の流れの中で形成されてきた宗教体系に大きな変化が生じた。西欧諸国と張り合うためにはキリスト教に匹敵する国家的宗教が必要だという認識と直感により、仏教の力は弱められ、国家神道が形成されていった。
こうして神仏習合の世界観から、天皇崇拝と神社信仰を基盤とした、一つの精神的支柱によって支えられる構造へと、日本人全体の霊的様相が変わっていった。そしてその精神的なエネルギーによって大日本帝国はその力を世界に知らしめた。しかし、そのような集団心理の限界と脆弱性を知らないまま大国へと喧嘩を売った結果、第二次世界大戦で敗戦を味わい、天皇はいわゆる「人間宣言」を行なった。そうして戦時中の日本人を支えた霊性の柱は力を失った。
戦後、アメリカの主導のもとに国の再建が進められ、再度日本が民族主義の道を走らないように、日本の伝統宗教の存在感は弱められた。仏教も神道も戦後の人々の心の支えになることはできず、日本人の霊性は方向性を見出さないまま復興の道を歩むしかなかった。その行き場のないエネルギーは経済発展に向けられ、日本は急速に経済大国へと成長した。
しかし、一定の物質的豊かさを達成した日本は、次にどこへ向かっていいのか分からず、心の貧しさに飢える人で溢れている。そしてそれはカルトや原理主義的な宗教にとって非常に住みやすい集団的精神環境である。社会への疑問を抱いた多くの若者が傾倒したオウム真理教の例を見れば明らかだろう。
つまり、ここで何が言いたいかというと、日本が今も抱える宗教的・霊的課題は、未解消の戦争トラウマが形を変えたものに他ならないということだ。統一教会が日本で広まり、政治の中枢にまで影響を与えたのも、韓国に対して日本人が抱える罪悪感を利用したことが大きな理由だろう。
自分が生まれ育った教会も、元を辿れば戦後、GHQの許可を得て活動していたアメリカから布教に来た宣教師が持ってきたものだ。伝統宗教の無力さに対する苛立ちや諦めの心を多くの人が感じている所に、実はそれらの宗教は間違った道で、そこから悔い改めて正しい道を歩むことができると聞かされれば、そちらへ靡く人も一定数居たのだろう。そして、敗戦による未消化の攻撃性を、伝統宗教に向けていった結果が「霊的戦い」というムーブメントなのかもしれない。
仏教や神道への批判もまんざら根拠が無いものでは無いだろう。仏教教団が武装勢力を持ったこともあれば、禅宗が軍に協力したこともある。日本を戦争に駆り立てたのは神道だし、戦時中には海外に神社を立てたりして、軍国主義を精神面から支えた。日本の伝統宗教だって相当の重いものを背負っている。宗教の闇から目を背けるのではなく、頭ごなしに批判するのでもなく、その宗教が持っているにも関わらず、塵が積もって隠れてしまっている、本来の輝きを見出すために、その宗教のポテンシャルを信じる人たちが、一歩ずつ地道に掃除していかなければならない。禅寺でお世話になった老師の「塵を払え、塵を払え」という声がまた頭の中で鳴り響いてきた。
巷で流行っているオカルトやスピリチュアルなものも、元を辿れば宗教的、霊的にぽっかりと空いてしまった穴を、雑多な思想や実践によって満たそうとする数々の試みであるように思う。「あなたの宗教は何か」と聞かれて、「無宗教」と答える日本人は多いが、その返答もこの歴史的な流れによる結果なのだろう。
そして、宗教二世問題とは、カルトの中で生まれ育った可哀想な人たちの物語ではない。安倍元総理の暗殺によって一時的にクローズアップされて、忘れ去られていく流行語であってもならない。我々宗教二世の当事者たちは、この国が、そしてこの地球が抱える課題を、国の元リーダーの暗殺へと人を駆り立てるほどに強烈な痛みを、心と体を持って感じ、うめきの声を持って社会に訴えているのだ。
もっと言えば、これは宗教二世問題にとどまる話ではない。宗教はあくまでも人々の内的世界の投影の一つに過ぎない。自分は宗教に触れる機会が多かったので宗教が切り口になるが、政治、経済、教育、貧困、いじめ、引きこもり、過労死など、未解消の戦争トラウマ、またもっと前の世代からのトラウマが形を変えた諸々の社会問題は、あらゆる形で私たちに訴えかけている。何が起こっているか目を見開いて見よ、よく観察してあらゆる問題の根本を見定めよ、その上で今必要とされている一手を打て、と。私たちは互いに直面している課題が全く違ったとしても、共に協力して現代に巣食う暗闇に光を灯し、一緒に次世代のビジョンを考えていかなければならないのである。
ではどんな手を打つのかと聞かれると、正直まだ分からない。まずはここまでの探求で見えた視点を共有すること、対話と学びを続けることでよりニュアンスのある理解を磨いていくこと、個人と集団の変容とは如何に起きるのか学んでいくこと、志を同じくするあらゆる分野で活躍する仲間と繋がること、変容が起こった先にどんな作り上げたい未来のビジョンを共創すること、そうやって一歩ずつ前に進んでいくしかない。
もう少し具体的に言うと、人間の多面的な成長発達を理解するための枠組みとしてのインテグラル理論や成人発達理論、物事の全体像を捉えるためのシステム思考、個人と集団としてイノベーションを起こすプロセスを理解するためのU理論などの理論体系を学習していきたい。今回の記事の内容もこれらの枠組みを使えばより綺麗にまとめる事ができるのだろうが、できるだけ自分の言葉で表現したいという思いから、今回は既存の理論をあまり使わずに書いた。
この人生では原理主義的な宗教的環境で育つという経験があったが故に、宗教の光と闇を人より繊細に見つめられる感度の高さをギフトとして与えられたように思う。これからも何らかの形でこの感度を生かしていくことになるだろう。日本という土地に生まれ、日本人のDNAを授かったものとして、自分はやはり仏教や神道を通じた日本的な霊性の表現に深い繋がりを感じる。荒療治ではありながらも、一番苦しかった時に自分の心に光をもたらしてくれたのは、やはり禅や修験道の修行体験である。だからこそ、日本が持つ精神的伝統は、日本が、また世界が抱える課題にとって、何か光を与えてくれる可能性があると思っている。それがどのように実現していくのかは、この先の人生を歩んで行く中で少しずつ分かってくるだろう。
今回の記事では音楽についてあまり触れられなかったが、音楽は自分の宗教的軌跡を語るには欠かせない要素でもある。「宗教的音楽」という言葉はよく聞くが、自分はむしろ「音楽的宗教」の信者であると思っている。あなたの宗教は何かと聞かれて、これまで「キリスト教の家庭で育った」という曖昧な答えを出すことが多かったが、これからは「宗教の光と闇を見つめる、音楽的霊性の統合的探求者」とでも答えることにしようか。
大学復学への思い
以上を受けて、大学復学に向けての決意をここに示す。
宗教の光と闇の双方に対してのより深い洞察を磨いていく。
インテグラル理論、成人発達理論、U理論など、成長発達と変容に関する枠組みを学習する。
コーチングの学びと実践を通じた対人支援スキルを磨いていく。
音楽、特にジャズに対する理解とジャズピアノの演奏スキルを磨く。
自分なりに瞑想等の実践を通して修行を深めていく。
アメリカの土地に根付く霊性と繋がり、学び、体験する。
ここまでの旅路を支えてくれた人々や伝統に対しての感謝の念を忘れず、自分なりの形で恩返しをする。
日々を全力で味わい、目の前の人々や状況へ最大限貢献する
大学でどんな人と関わって、どんな授業をとって、どんな活動に時間を費やしていくのか、まだわからない。きっと道は自ずと示されるだろう。大いなる流れに委ね、一歩ずつ淡々と歩みを進めていくこととしよう。
終わりに
最後に、最近書いた詩をここに共有したい。
わたしの中心にある「わたし」
あなたの中心にある「あなた」
全存在の中心にある「存在」
それらはみんなひとつ
わたしはあなた
あなたはわたし
わたしがあなたを許す時
世界はわたしを許し
わたしがあなたを愛する時
世界はわたしを愛する
愛の大海原に漂う一滴の愛
わたしは今日も遣われ人として
精一杯生かさせていただこう
長い文章でしたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。何かあればいつでも声をかけてください。これからも応援よろしくお願いいたします。