自分の中の「かまってちゃん」を飼いならす
『承認欲求』や『かまってちゃん』といった言葉は、昨今なにかとマイナスの意味の文脈で使われがちだ。
直接的なマイナス表現というよりは、揶揄の意図をもって使われることが多い。
『あの人は承認欲求の塊だ』とか『かまってちゃんが炸裂している』とか。
あと個人に対してだけじゃなく、インスタに映える投稿をするぼくたちを見て、『いまの若い世代は自己承認欲求が強い』なんて言われ方もする。
けど、最近ぼくのなかで確信に変わりつつあるのは『みんなそれぞれ承認欲求やかまってちゃんな自分を抱えていて、その差は有無ではなくて程度でしかない』ということだ。
2ヶ月前のnoteでも似たようなことを書いたけど、そのときからより確信度が高まっている。
褒めてもらったり、自分の存在を肯定してもらったりして嬉しくない人なんていないだろうから、この世のすべての人『何者』かになりたいという欲求は、持っていると言っても過言じゃない
というのも、きょうぼくの会社で同じ20卒の内定者が『どうしてwevnal(ウェブナル)に入社することにしたのか』というテーマで社内プレゼンをしていたのだけど、そのなかで『wevnalは私のことを”モノ”ではなく”人”として見てくれたから』というフレーズがあった。
これはもう立派な『承認欲求』のカテゴリに入るエピソードだ。
それで、ぼく自身も『どうしてwevnalを選んだのか』というテーマで1本会社のほうで記事を書いているのだけど、『wevnalのみなさん(特に上層部)が、地方のイチ大学生にここまでしてくれるのか!というのがうれしかった』という、承認欲求とかまってちゃんのハイブリッドみたいな理由をかましている。
まあ別にこれだけが理由ではないのだけど、逆にこれが理由のひとつになったのは事実で、当時は記事を書きながら『あぁオレも結局は俗世な欲求にはかなわなかったかぁ』と若干自分にガッカリしている部分もあった。
ただ、それからいろんな人の言動を観察していて、そして今日自分以外の人の入社理由を聞いて『承認欲求やかまってちゃんは、全人類に備わっている本能なんだな』と受け入れられるようになりつつある。
2ヶ月前のnoteの言葉と重複するけど、褒めてもらったり、自分の存在を肯定してもらったり、なにかあったときに気にかけてもらったりして嬉しくない人なんていない。
インスタやってるぼくら世代は承認欲求の世代なんて言われるけど、あれはたまたまそういった欲求が顕在化しやすいプロダクトが世に出ただけで、縄文時代にインスタが存在しててもみんな我先にとオシャレスポットに足を運んだだろうし、というか、いまもうインスタに世代という概念はあるのか??(=40代50代でやってる人もたくさんいる)
誰かに認めてもらいたいと思うからこそ頑張れることもあるし、誰かにかまってもらわないと(=助けてもらわないと)死んでしまうからといったふうに、ぼくたちの生存に有利な側面があるから本能として根付いてるわけで、それを否定するのはもったいない。
ただまあ、『自分の生存に有利だから』という理由で備わっているのに、それらの欲求が行き過ぎて、インスタでいいねをもらうために背伸びしすぎた写真を取り続けるとか、かまってほしさのあまりちょっかい出しすぎて嫌われるとか、ザ・本末転倒な事態にはならないようにだけ気をつける必要はある。
それさえ注意しておけば、承認欲求もかまってちゃんも、自分のなかのそれを受け入れてうまく利用していくほうが、健全な生活を送れるなと感じる今日この頃。