自分ができないからって「支える側」に回るのは、安直すぎる
今日の話は、めちゃくちゃ自戒の念を込めて系であります。
昨日、『最近でてくるサービス、「初速」を意識しすぎじゃない?』というnoteを書きました。
特に、雨後の筍ごとく生まれるプラットフォームが、みな埋もれることを恐れて、ローンチ時のPRが派手すぎだという話をしました。
そうです、最近、やたらと「プラットフォーム」が乱立しているのです。
そんな状況に、キンコン西野さんは「なめんなよ!」と先日ブログで書いていて、最近ぼくが感じていたことがうまく言語されていたので、ぼくもこの機にじぶんの考えを整理しておこうと思いました。
西野さんはブログで、やたらと「場」をつくりたがるひとたちに向けて、このような言葉を発しています。
なんで、「『場』を作ることに才能は必要ない」と思ってんだ、タコ!
猫も杓子も『場』を作ろうとして、そこかしこに『場』が転がっているこの時代に、オメーの『場』が選ばれる理由は何なんだよっ!
要は、「自分にはつくり手としての才能がないから、せめて「場」をつくって、そういったつくり手たちの支援をしたい」=「場をつくるのは、つくり手としての才能がなくてもできる」と思っているのは、甘すぎるということです。
では、実際に「場」をつくるにはどうすればいいか。
西野さんはブログの最後に、こう書いています。
なので、「クリエイターを支援する『場』を作りたいのですが…」という相談を受けた時は、「キミ自身がトップクリエイターになれば、いくらでもクリエイターを支援できる『場』を作れるよ」とお答えしています。
まずは圧倒的にじぶんがつくり手(=プレイヤー)として「核」になってこそ、そこに「場」が生まれるのです。
とどのつまり、本当につくり手を支援したかったら、最初に支援したいつくり手より強くならないと、話が始まらないのです。
この西野さんのブログを読んで以来、ぼく自身もすこしづつ考え方が変わってきています。
タイトルにもありますが、「じぶんに才能がないからって、「支える」という言葉に逃げるのではなく、本当に支えたかったら、どっちにしろじぶんよりも才能あるひとたちと、対峙する必要があるんだな」ということです。
西野さんのブログから立て続けに、塩谷さんのトークイベントや今日よんだばかりの記事でも、同じようなことを考えさせられました。
塩谷さんのトークイベントでは、塩谷さんが天才を「育てる」という言葉を使っていて、ぼく自身がいままで天才に抱いていた「支える」からは、まったくなかった発想でした。
参考(イベントレポート):「メディアは稼げない」は本当か?
あと、今日よんだばかりのスタジオジブリ鈴木さんとクラシコム青木さん、あとクラフター石井さんによる鼎談記事も、めちゃくちゃ響きました。
鈴木さんと宮崎駿さんが話すときは、いまでもお互いに敬語なのだそうです。
想像しただけでも、両者の間に流れるなんともいえない緊張感を感じました。
それはまさに、プロデューサーの鈴木さんが宮崎駿さんを「支えている」のではなく、「決闘している」からこそ、醸し出される空気感なのだと思います。
ぼくもメディアを通して、「天才が世に輩出される手助けをしたい」と思っていたんですが、そんな考えじゃ甘々だと気づきました。
本当に世に輩出したいなら、天才を打ち負かすくらいの勢いで、ぼく自身が天才よりも力をつける必要があります。
先述した西野さんのブログは、こんな言葉で締めくくられていました。
誰かを助けたければ、強くなるしかないです。
「強さ」と「優しさ」は、表裏一体です。
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