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読者を「育てる」メディア

SNS時代に「バカ舌」どもが自分の「好み」だけでベラベラとモノを言えるようになったことで、まともな努力で高みに達している人たちがどれだけ傷つく機会が増えたのかいうことを想像すると、胸が痛くなる。

この1文は、ぼくが最近よんだnoteのなかで書かれていたものだ。

言葉遣いが荒すぎるのが玉に瑕だけど、主張内容自体は、非常に考えさせられるものだった。

一般的に、「わかりやすいこと」は善とされる。

特にメディアにおいては、「難しいことを噛み砕いてわかりやすく伝える」のは、その大事な役割のひとつだ。

でも、「わかりやすさ」ばかりに拘泥すると、なにか大切なものを見失ってしまいそうで、そこはバランスが必要だよなあとも思う。


「わかりやすさ」と「正確さ」は、常にトレードオフだ。

わかりやすく伝えることは、枝葉末節の情報を削ぎ落として、どんどんと解像度を荒くしていくことと同義である。

そして往々にして、その削ぎ落とされる枝葉末節のなかにこそ、「豊かさ」みたいなものが隠れていたりする。

ただ、その「豊かさ」を感じ取るには、いわゆる「教養」や「感性」と呼ばれるものが必要な場合が多く、丸腰の受け手にはどれだけ伝えようとしても、なかなかうまく伝わらない。

そこで冒頭の一節に戻るけれども、じぶんの許容キャパを超えた情報に対して、受け手は「面白くない」や「意味がわからない」という感想を持ってしまうのである。

もちろん、伝え手は最大限、伝えるための努力をすべきだ。

ただ、現実問題として「全員に完全に」伝わるというのは、なかなか難しい。


そしてぼくは、「伝わるべきでもないよなあ」とも思った。

そこの「全員に完全に」伝わることばかりに固執していると、受け手も痩せ細っていってしまう。

おかゆやゼリーみたいな柔らかいものばっかり食べて、歯が弱くなってしまうようなイメージだ。

ときにはあえてせんべいやするめのような、噛みごたえのあるものも食べてもらうことで、受け手を育てることもまた、伝え手のひとつの役割だと思う。

最近流れてきたツイートで、タモリさんがとあるインタビューかなにかで、「わからないからこそ、興味を持つんだよな」みたいなことを言っていた。

「わかりやすく伝える」ことのおおきな目的のひとつは、「興味を持ってもらうこと」だ。

だったら、ときには受け手が背伸びしてもっと知りたくなるような、少し「意味のわからない」情報の伝え方をするのもありなのかなあと。


★そういう言い訳に甘えて、意味のわからないことばっかりつぶやいてはいけない


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藤本 健太郎 / 編集者
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