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「負の感情」にどう向き合うか

なんの結論もない話なんだけど。

最近、『負の感情との向き合い方』について、考えることが多い。

そしたらちょうど昨日、ゆうこすさんも感情についてツイートしてて。


生きてたらそりゃ、誰だって良いことも悪いことも、嬉しいことも悲しいこともある。

それで良いことや嬉しいこと、ざっくり言うと『ポジティブな感情』は、力の限り世に放っても良いと思う。


問題は悪いことや悲しいこと、つまり『ネガティブな感情』だ。

この問題は『発するか発しないか』と『発するとしてどのようにするか』の2段階ある。

まず『発するか発しないか』について、発する側の意見とすると、世の中の便利やサービスは、人々の『不満』から生まれてきているというのは大きい。

思っていることや感じていることは、やっぱり声に出さないと伝わらない。


でも一方で、『言語化による感情の増幅』という側面は、少なからずある。

言霊を侮ってはいけない。

だから、別にそんなに対してネガティブな感情を持ってなかったけど、書き込んだり話したりしているうちに、どんどん(悪い方向に)感情が高まってしまうことはある。


あと、便利につながるという点で、変な言い方だけど建設的な不満は良いのだけれど、ただ悪口を言うことが目的化すると、これほど怖いものはない。

いわゆるクソリプだ。

そして厄介なのが、建設的な不満とクソリプの境界線は、非常に曖昧である。

最初は、良かれと思って発していたネガティブ感情が、いつの間にか増幅されて、気づいたらネガティブ感情を発すること自体が目的化してしまっていた、なんて話は想像に難くない。


でもじゃあ、ネガティブな感情は全てグッと飲み込めばいいのかというと、それもやっぱり違う気がしていて。

もちろんときにはそういうことも大事だろうし、ポジティブな感情に支配されすぎて、ネガティブな感情が入る余地がないという状態も、それはそれで一種の理想だなと思うけれど。

昨日ゆうこすさんが言ってるみたいに(というかぼくの勝手な解釈も交えて)、ネガティブな感情だって、自分の抱いたひとつの感情であることは間違いない。

だからそれはそれで、ひとつの立派な感情として尊重されるべきだなと思う。


グッと飲み込みきれるのならそれでも良いけど、たぶん大抵の人はその過程でものすごく自分に負荷をかけているはず。

気が張っているときとか、調子の良いときはそれでもごまかせるけど、どこかでふと緊張の糸が途切れたときに、燃え尽き症候群になってしまうかもしれない。


だから、負の感情も飲み込むのではなくて、それはそれで一旦は受け入れるのは大事なのかなと思う。

それで、仮にその感情を吐き出すとして、前に『紙に書き出す』のがオススメだと、誰かが言っていたことを思い出した。

人に話したり、SNSに書き込んだりすると、それを聞いたり読んだりした人たちに伝播してしまうこともある。

だから、直感的に『これは建設的ではない、個人の都合に基づいたクソリプ予備軍だな』と思ったものは、紙に書き出すのが良いのかな―と、最近はボンヤリ思ってる。


理性を保ったまま発露できそうな不満であれば、ある程度抽象化させて特定の個人を傷つけないよう最大限の配慮しつつ、人に話すなりブログに書くなりをすることは、むしろ世を前進させるきっかけになるかも知れないので、良い。

あと、さっきから書いてる『人に話す』は、まったく人間関係的にしがらみのない第3者に愚痴をこぼしまくって、それでスッキリするっていう人もいるので、まあそれはそれで話してる人と聞いてる人が納得してるなら、ひとつの手段としてアリだなとも思う。


とりあえず、感情に素直に向き合うことは大事だけど、感情をそのままぶちまけることとは分けて考えたいなー、うまいやり方、程よい境界線はどこなのかなとーいうのを考えている、今日このごろという話。

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