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「農業革命」は、ぼくたちに幸福をもたらしたのか?

平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。
農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ
(『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』より)


『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』を読みました。


きょうはそのなかで、特に印象に残った箇所について、感想を書いていきたいなと思います!


ぼくたちは基本的には、テクノロジーの進歩はぼくたちの生活を便利にすると信じています。

だからより楽に、より安全に、より幸福になることを求めて、ぼくたちは技術を発展させます。

しかしときには、テクノロジーの進歩がぼくたちに幸せをもたらさない、ことがあるのかもしれないなというのが、きょうのnoteの主旨です。


時期は紀元前9,500年~8,500年ごろ。

人類の狩猟生活から農耕生活への、本格的な移行が始まりました。

一般的には、農耕生活への移行により、集団生活が始まったり、貯蓄ができるようになったりして、生活や文化が豊かになったと解説されることも少なくありません。

しかし本中では、農耕生活への移行は、人間個々の生活の観点から見れば、むしろ悪化したとの旨の話が続きます。

農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。
狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な生活を送り、飢えや病気の危険が小さかった。
人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。
(『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』より)


ぼくたち先進国の人たちがいま、平均的に週に40~50時間、発展途上国の人が60~80時間働いているとして、当時狩猟採集民は週に35~45時間しか働いていなかったそうです。

狩りは3日に1日で、採集は3~6時間。


にもかかわらず、ぼくたちよりももっと多様な食べ物を食べていました。

現代のぼくたちが摂取するカロリーの9割以上は、小麦、稲、トウモロコシ、ジャガイモ、キビ、大麦といった数種類に集約されます。

一方で、狩猟採集民は、平均で常に何十種類もの食べ物を口にしていました。

だから、仮になにかの生物が絶滅したり、数種類の木の実や葉っぱなどが見つけられなくても、他の何十種類も存在する食べ物を代わりに採集すればよいだけでした。

一体、現代と狩猟採集時代で、どちらが豊かな食生活を送っているのか、分かりません。


どうして人類は、以前よりも時間かけて、以前よりも種類の減った食べ物を育てるようになったのでしょうか。

この問いに対して、端的に言うと、筆者は『理由はない』と答えています。

言い換えると、狩猟採集生活から農耕生活へ移行したことによるメリットはありませんでした、個々の人類にとっては。

それでは、いったいぜんたい小麦は、その栄養不良の中国人少女を含めた農耕民に何を提供したのか?
じつは、個々の人には何も提供しなかった。
(『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』より)


しかし、逆に言えば人類全体にとっては、大きなメリットがありました。

小麦は単位面積あたりの土地から得られる量が多いので、ホモ・サピエンス自体の数は爆発的に増えたのです。

つまり、個々の人類にとっては、多様な食生活を失ったし、たくさん働かないといけなくなったしで、あんまり良いことはなかったんですが、人類全体で見れば、とりあえず食べ物(=小麦)を胃に入れておけば死ぬことはないので、数は増えます。

つまり、農耕生活によってもたらされたのは、『人類個々の幸福』ではなくて、『人類全体の繁栄』だったと言えます。

これ、すなわち以前より劣悪な条件下であってもより多くの人を生かしておく能力こそが農業革命の神髄だ。
(『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』より)


そして、テクノロジーの進歩という文脈では、農耕時代から今日まで、『個々の幸福』よりも『全体の繁栄』がもたらされているという状況が引き継がれているのではないかと思います。

たとえば、いま40代とか50代とかくらいの営業の人に話を聞くと、昔はアポとアポの合間の時間は、喫茶店でサボるのが至福の時間みたいなことを言います。

30年前くらいだとスマホがないし、PCを仕事でバリバリ使うというようなこともなかったでしょうから、外出先でやることがないわけです。

でもいまなら、PC一台でメールの返信ができるし、スマホでも十分に仕事ができます。

これはあくまでもひとつの例ですが、ぼくたちはテクノロジーの進歩によって便利になっているはずなのに、楽になるどころか、見方にはよってはむしろ忙しくなっているとも言えます。


しかしこれも、個々のビジネスパーソンの観点から見れば忙しくなったという意味ではマイナスかもしれませんが(仕事大好きな人たちにとってはありがたいですが...!)、社会全体から見れば、30年前は2日後に返ってきていたかもしれないメールが10分後に返ってくるので、その分仕事が早く進み、世の中に価値をもたらしているのかも知れません。


でも、かといってじゃあ狩猟採集時代に戻るのかと聞かれれば、それはまったくもって現実的ではありません。

堀江貴文さんはよく『パンドラの箱』と表現しますが、知ってしまった利便性をぼくたちは手放すことはできないのです。

植物の根を掘り返す生活に戻るのか?とんでもない。彼らはなおさら一生懸命取り組み、あくせく働くのだ。
歴史の数少ない鉄則の一つに、贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる、というものがある。
人々は、ある贅沢品にいったん慣れてしまうと、それを当たり前と思うようになる。
(『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』より)


じゃあ結局どうすればいいのかというところで、対症療法的な手段として最近はデジタルデトックスなんて言葉もあるわけですが、ぶっちゃけ、根本的にじゃあどうすればいいのかというのはわかりません。

歴史の必然と言ってしまえばそれまでです。。。


きょうのnoteは、解決策を考えるというよりも、というか、これをそもそも問題にするべきなのかも議論の余地がありますが、とりあえず、テクノロジーの進歩は、社会全体の進歩には間違いなく寄与するけれども、人類個々の幸福に寄与するとは限らないよという話でした。



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藤本 健太郎 / 編集者
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