知覧へ
毎年、「年に一度は戦争の事を考える旅」を行ってきた。
広島、長崎、鹿児島の知覧、鹿屋・・と戦争によって犠牲となった人達に思いを寄せ、国を守るために命をかけた人達に感謝の気持ちを捧げる場所へ向かい、慰霊の意味も込めて感謝と祈りを捧げる。
そして、今自分が生きていられる幸せを感じながら、これからの生き方を再構築する時間は、とても大切だと感じてきた。
今年向かったのは知覧。
鹿児島市内からはバスか電車とバスの併用で向かう事になるが、ローカル線に乗ってみたいと思っていたので、今回は併用スタイルで向かう事にした。
ウィークデイであり、まだお盆の帰省客が増えていないタイミングだったので、ローカル線も空いていたが、暑さ対策で窓にスモーク処理がされていたのが発見ではあった。
利用した指宿枕崎線は単線で、列車はディーゼルカーとなる。
五位野駅まで利用したが、五位野駅は無人駅。
交通系ICカードの決済はホームに設置された端末で行うスタイルだったが、鹿児島は交通系ICカードを利用できる交通機関が想像以上に少ないのだ。
ただ、その代わりにクレジットカードのタッチ決済ができるので不便は無く、最初からこれだったら良かったのに・・と思ったのも事実。
五位野駅から徒歩5分で、知覧特攻平和会館に向かうバスの停留所がある。
ただ、ちょっと暑さを舐めていた事を、すぐさま思い知った。
そして、街中を走ってくるバスは時刻通りに到着なんてしないワケで、暑さでフラフラになりつつ待って、やっとバスに乗る事ができた。
知覧特攻平和会館は、1985年に開館。
知覧には旧陸軍大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所があったが、戦況の悪化により1945年に陸軍特攻基地となり、日本各地から隊員が集結し出撃する事になった。
1975年に開館した知覧特攻遺品館を継いで建設され、写真や遺書等の遺品や特攻隊員の遺影が展示されている。
平和会館へ向かう道には献燈が置かれ、そこには隊員の像が刻まれているが、それらは同じ顔では無いけど、どこか優しい顔をしてる。
今回は企画展として講演があるとの事で、その話を聞くためにも来たかったのだが、特攻隊員を世話した女学生を母に持つ方の講演は、家族でしか知り得ない状況を聞く貴重な時間となった。
展示されている遺影の中で出撃前に撮られた集合写真が笑顔になっているのは、残された家族が見る最後の顔が笑顔であって欲しい、という想いがあったからだと聞かされる。
そして、出撃する隊員の世話をし出撃を見送る女学生達には、出撃する隊員には笑顔以外の顔を見せないよう厳しく言われていたとの事。
それでも250キロ爆弾を積んでいる機は二度と戻る事が無いとわかってしまうため、そっぽを向いたりうつむいたりして、涙を流している顔を見せないように手だけ振って送り出したと、講師は母親の実体験を語ってくれた。
展示されている遺影を見ると、あまりの若さに言葉を無くす。
一番若い隊員は17歳1ヶ月。
そのあどけない顔を見るだけで心が痛む。そしてその人達が守った日本を、自分も大事にしたいと思うのだ。
この時代でもまだ戦争がある事は、あまりに哀しい。
そして日本では、まだまだ「対岸の火事」と感じている人も多いだろう。
SNS等に罵詈雑言をアップしたり、生きる価値が無いとばかりに攻撃する人がいるのは、実際に命のやり取りをしなくちゃいけない事態に遭遇しない幸せな環境に居るから?ではないだろうか。
自分は、あまり他人の感情や環境を想像できないタイプなので、誰かとのコミュニケーションはもの凄く苦手だ。
と言うか、相手がどんな思いを伝えたいのか、理解できないのだ。
それでも、知覧特攻平和会館であらためて読む出撃者の遺書が伝える感情は、自分の事の様に伝わってくる。
そしてその感情に、恵まれた人生を歩んでこれた幸せを与えてくれた彼らに対して、感謝の気持ちを新たにする。
暑さで目眩が出そうになって見上げれば、強すぎる日差しが不思議なハレーションを見せる写真を作る。
英霊がそこにいる様な気持ちにもさせられたが、それは単なる思い込み。
そしてそれは、汗と涙で身体中の水分が出てしまったが故の錯覚なのだと、自分に言い聞かせた。
ただただ、暑かったこの日。
危険とアナウンスされる時間帯に動いた事もあって、すっかり燃料切れとなってしまう。なので、鹿児島中央へ戻って遅いランチ&飲みで補給する事にする。
・・と、携帯が緊急地震速報を知らせるアラートを発した。
だが、震度5弱とメッセージが出ても、実際のところは体感で震度3程度。
「かごっま屋台村」という飲食店街で飲んでいたタイミングだけど、誰も慌てずに飲み倒したままで、日常的な風景しかない。
まぁ、目眩で身体が揺れているからか既に酔っ払っているからか・・で、よくわからなかったのかも知れないね。