ぼくらのカタルシス、そしてアトーンメント 後編(東富士版)
★カタルシス
1.舞台の上の出来事(特に悲劇)を見ることによってひきおこされる情緒の経験が、日ごろ心の中に鬱積(うっせき)している同種の情緒を解放し、それにより快感を得ること。浄化。▷ ギリシア katharsis
2.心理学における、浄化および、排他のこと。また、無意識的なものを意識化する方法のこと。無意識の内に抑圧されている、過去の苦痛や恐怖、罪悪感をともなう体験や、そのときの感情などを言葉で外にだすことによって、「たまっていたものを排出し」、心の緊張がほぐれるようになる。
★アトーンメント
atonement
名
1. 〔悪事や損害に対する〕罪滅ぼし、償い、補償
2. 《キリスト教》〔キリストがもたらした神と人間の〕和解◆通例Atonement
前編より続く
【そもそも何のために】
なぜ、そこまでの危険を犯してまで。
有志を募ってまで危険な行事を行うのか。
野焼きの実施については、あまりにも慣例化している為、驚くべきことに「その実施の目的」すら、歴史の中に忘れ去られてしまっている。「当たり前のように、毎年やるもの」
私は事故後、多くの御殿場市民に「野焼き目的を知っているか」と問い続けてきたが、驚くなかれ、8割の御殿場市民が「本来の目的を知らない」という状況が明らかになった。
①野焼きをすると、その後に良質な山菜が取れる。
②良質な茅材の採取の為、年に一度火をかけてクリアランスする必要がある。
などの回答が多かった。
どちらも間違いではない。だが、それは付加的な恩恵であり、とても数百人規模のボランティアが命がけで取り組むような「目的」ではあり得ない。
野焼きの本質的な「目的」は
③ダニ(ツツガムシ)の防除
である。
茅野はツツガムシの生息域である。ツツガムシはダニの仲間であり、大人しく茅野だけに潜んでいてくれない。常に生息域の拡大を期し、東富士茅野原から、生息域を拡大しようとしている。どこへ、と言えば、類似の棲息可能域へ、であり、我が町で言えば耕作放棄地が、速やかに(2〜3年)茅をふんだんに含む原野へと姿を変え、このダニ類を温かく迎え入れる。そして繁殖させる。
ツツガムシ病という病がある。日本紅斑熱と並ぶ、ダニ媒介性リケッチア症の一種で、国内では毎年400から多い年で700超の症例報告がある。発症すれば死にも至る。
だからこそ、その防除を目的として、長年に渡り「野焼き」を続けてきたのだ。
野焼きとは、ボランティアのレクリエーションや、農業的技法などでは決してなく、「自然と人間の戦い」の一幕なのだ。自然環境の中に人間の領土を獲得し、そこに生きる、生活する為には、戦わなければならない相手がいる、ということなのだ。
亡くなった3名の補償をめぐる係争の中、様々に火防隊に安全意識の低さなど、運営実態への批判が集まった。そのこと自体は火防隊側の人間として、責任を感じ、真摯に受け止めるが、「住民の為に前線で戦う兵士」、「殉職者」への言葉として、あまりに無情、無知。野焼きという行為による恩恵に浴している人間として、感謝や追悼より先にそういう言葉が出ることについて恥ずる点はないのか、私は問いたかった。
【その後、どう生きる】
あまりに悲しき事故ゆえ、地域でも触れることをタブーとする風潮が醸成され、社会的には忘れられつつある「野焼き事故2010」。
私は後に火防隊支隊長に就任し(周り番なので断れない)、事故のあった北畑支隊の支隊長と共に視察研修旅行に出かける機会があった。
元々飲み友達のようなものだが、改めて酒食を共にして、当時を振り返り、現在を語った。私と同期支隊長となった彼は、言うなれば北畑支隊の、事故からのサバイバーということになる。事故当日も亡くなった3名と行動を共にしていた。肉体にも精神にも、深い傷を負った。
人からは、「お前は生き残ったのか」などと心無い言葉も、随分浴びせられたようだ。時に心無い言葉は家族にも届いた。家庭は荒み、子供や奥さんとも別居。酒よりも、医師(精神科)から処方された安定剤を飲む姿の方が、印象として私の記憶に焼きついた。
なぜだろう。崇高な自己犠牲により、他者の生活の安全の為に働いた人間に対する社会の仕打ちとして、これは適正なのか?
ボランティア同然の素人集団に、過大な任務を与えて、失敗したら社会全体で叩く。この国の倫理はどうなってしまっているのか。
その全てが「無知」により産まれる。
目的を知らない。
本来の役割、責任と錯綜した任務が発生していることを知らない。
自分が受けている恩恵を知らない。
この時ほど、「無知」と言うものを憎んだことはない。「無知」な人間が、傷つかないところから、汗をかかないところから好き勝手なことを言う。
悲しいことに、犠牲者遺族や、サバイバーの家族、地域市民、下手すれば実行当事者すら、その意味、意義、目的に対して無知であった。
それが故に、事故後にも、皆十分な「カタルシス(感情浄化)」を持つことができなかった。人の心理の中で、悲劇はカタルシスを経て初めて、前向きな物語への転換を行うのだ。
せめて私は語ろう。語り続けようと、それだけを誓った。
【農業の明日】
2023年。農業の世界も大きな転換期を迎えている。保護産業としての位置付けは厳然として終わり、これからは他産業と同様の競争社会へと変貌していくと、私は予想する。
私は冷静に、その時代の到来に向け準備を進めている。私はその転換を否定しない。その転換を踏まえて生き残る術を模索している。
では、農地はどうなるのだろう。
私はある種の贖罪として農地の再生を請け負っている。自己満足と言ってもらって構わない。私個人のカタルシス(感情浄化)としての側面を持っていることは事実なのだから。
住宅(街)に隣接している農地が荒廃し、茅を中心にジャングル化してしまった農地。その中でも排水性、ほか立地条件から見て赤字運営にならないケースには限定させてもらっている。こちらも経営なのだ。市役所が把握している情報を選択して、生活危害要因が強い農地から再生を行なっている。再生に適したツール(栽培品目)の選定も、業務の一環として捉えている。
住民の生活をイメージしてみる。窓を開ければジャングル。ダニ天国。(多くの市民はその事実も知らない。ダニは視認するにはあまりに小型害虫だから)。そのことを知っても、果たしてここに住まい、安心して子育てできますか?と問いたい。
私は無理だ。
私自身、子供の頃、「入って良いエリア」と「入ってはいけないエリア」の区別などできなかった。子供は生活圏の全てを遊び場とするものだ。
ちなみに私が小学生の頃、「ツツガムシ警報」という物々しいお知らせが下校前に全校放送で流されることが、しばしばあった。
通学路の途中に廃棄された酪農牧場跡があり、荒廃地と化していた。誰がツツガムシの生息数調査をしていたのか、もはや遡ることも不可能だが、学校という公の場で放送されていたと言うことは、何らかの公共性のある何者かが調査をしていたのだろう。
ツツガムシ警報が発せられると、子供達はずいぶん遠回りして登下校をしなければならない。不便なものだなぁと思った記憶がある。
その牧場跡は、平成の中頃に宅地造成され、その後ツツガムシ警報の話は聞いていない。
ただ、現在の荒廃農地状況(植物分布)や、東富士茅野原(演習場)との位置関係を考える(近い)と、至極当然の展開として、再び「ツツガムシ警報」が発せられる日は近いと私は見ている。
ツツガムシが絶滅したとか、人類にとっての喜ばしいニュースは聞いたことが無いので、そのまま鎮静化や消滅を期待するほうがどうかしている。耕作放棄地という、彼らの安住の天国が広がっていることが唯一の現実だ。しかも住宅に隣接しているということは、火をかけることもできない。ダニの繁殖を防ぐ手立てがない。打つ手がない。
【だから補助金?】
そう言うことだから、やはり小規模農家を保護し、耕作を維持し、農地と暮らしを保全するべきだ!という意見も出得る話である。
だが、私はそうは思わない。
これだけ安くなり、貧しくなった日本国に、「そこに補助金ぶち込むお財布の余裕」はない、と私は考えている。貴重な税金の使い道なのだから、気前の良いことを言うんじゃない。もっと別の有益なことに使いなさいよ、と思う。ただでさえ予算不足で、もう国から地方自治体の行政サービスまで、予算配分もグズグズで目に余る状況じゃないですか。
じゃあ、ジャングル化した農地と、隣接した生活圏はどうするのよ?と、思いましたか?
それは社会全体で考えましょうよ。
経済的メリットを失った農地を、補助金で維持するのは、あまりに無理筋だ。お金(予算)は無限ではない。使い道には選択が必要だ。
しかし、農地を荒廃させれば隣接する生活圏が脅かされる。
そう、自然は人間に優しくない。そんな当たり前のことを、人間は忘れすぎている。「自然と共生する」みたいな素敵なスローガンを耳に、目にすることは多いが、自然の方は人間と共存したいなどと願っていない。自然から見れば、人間もダニも等しき存在であり、あるのは人間、ダニ間の生存競争という一点だけだ。
宮崎駿が描いた「風の谷のナウシカ」。アニメがあまりにファンタジーな絵柄やモチーフで描かれるので、皆気がついていない。あなたが暮らしているのは「風の谷」であり、人類(特に日本)は、黄昏の時を迎えている。自然との領域獲得競争に日々敗れているのが、今の日本という国なのだ。
今一度人類は思い出してよい。自然は厳しく、人間は限定され、整備、管理された、危いバランスを保った環境の中でしか生きられない。
温暖化に伴うゲリラ豪雨、スーパー台風、大震災や津波だって、地球からしたら寝返りやあくびみたいなものだが、私たち人類の脆弱な暮らしにとっては致命的だ。
さて。話を戻し、私は問いたい。
経済動物としての人間なのである。経済性を失った農地は、維持、保全する理由がない。資金も担い手も限定的だ。
ただし、農地の放棄は、同時にそのエリアでの生活放棄を一括で発生させる。(やや時間差で、次第に発生させていく)。耕作放棄地、という言葉は多くの人が聞き慣れているだろうが、その先に遠からず待っている「生活放棄地」という発展形。既に国内でも多くの実例が報告されつつある。もう、けっこうあるんですよ。
そのことを理解した上で、皆さんどうしたいですか?社会として。
農業者として力を出せ。力を貸せ。
そう言うなら、私は貸す準備をしている。ただし、無償ではない。経済活動として、企業として力をお貸しする。
一括放棄(生活放棄地の発生)を選択するなら、それも肯定する。人の往来のなくなった原野がいくら荒廃しても、それは次第に本来の植生を取り戻し、CO2と温暖化の視点から見れば一定の有益性が人類にもたらされる。
さあ。他人事であることをやめて知って欲しい。これからプレイヤーも、人口も減少し、前人未踏の少子高齢化へ向けて世界でもトップランナーになる日本国である。世界の誰も、かつて味わったことのない黄昏の世界。言うなれば撤退戦。あなたは、いや、私たちは、黄昏サバイバーのモデルを世界に示せるのか。
その無知からの脱出を図り、ぜひ前向きな検討と、勇気のある決断をして欲しい。守るも勇気。捨てるも勇気だ。黄昏を悲観するのではなく、早々に決断して前に進もうじゃないか。次の世代の為に。
その無知からの脱出の過程で、この東富士で行われている野焼きの真の意味を知って欲しい。人の生活は、人知れず誰かがかいた汗で支えられている。悲しい事故を乗り越えて、今年も野焼きは行われている。傷つかないところで安穏とするのはよそう。この足元も、すぐ崩れますよ。
その無知からの脱出の過程で、家族を残して散って行った若者の物語を知って欲しい。
でき得ることなら、消防や自衛隊の殉職者と同様の尊厳を認め、時々でも思い出して欲しい。思い出し、弔い、彼らの魂を慰めてやって欲しい。そのことが残された者の魂をも慰めるから。
およそ体がいうことを聞く間は、私はこのことを語り続ける。また、農業者として出来ることをする。
それがぼくらの。いや、ぼくのカタルシスであり、アトーンメントなのだ。
百万が一で良い。正しい意味や意義を語り続けることで、いつかどこかで、犠牲者やサバイバー達の子弟にも届き、ほんの少しでも彼らのカタルシスに資することができますように。
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