
「スクールカーストは『自信の無さ』と『思い込み』から作られる」ということと音楽
たいていの人は『自分は平均よりも良い存在だ』と根拠なしに思ってます。
例えば「あなたが選んで買った宝くじと他の人が選んだ宝くじを交換してもいいですか?」と訊くと、ほとんどの人は断りますが、これは『自分が買った宝くじは他の人が買った宝くじよりも当たる確率が高い』と、客観的な確率を無視して信じているためです。
しかしこれは別に悪いことではありません。例えば『きっと私は一流のピアニストになれる!』というように、自分を信じるからこそ人は夢に向かって頑張れるのです。『私より先に始めた人や、私より頑張っている人、私より条件の良い人もいる…ダメかも』と現実を見つめると人はなかなか頑張れません。
そんなわけで、たいていの人は根拠のない自信を持っており、それによって頑張ることが出来ます。また、そうやって頑張った人しか夢を叶えることはできません。
根拠のない自信はとても大事なのです。
しかし、現実はときどきとても残酷です。
夢に向かって頑張った結果、何度も何度も挫折や失敗をしてしまうこともありますし、そもそも、夢に向かって頑張れない環境に縛り付けられて、逃れられないこともあります。
そんなとき、人は自分よりも下の人を見つけて『自分はあの人よりも上だ…』と思うことで、自信を取り戻そうとすることがあります。
心理学ではこれを「下方比較」と呼びます。
下方比較する相手は誰であっても可能です。人間には、さまざまな側面がありますし、その評価基準はあいまいですから、どんな人相手でも、粗探しをすれば必ず、自分より下と思うことが出来るからです。
実際、自信を失う経験をしたことのある人は、たいてい心の中でこっそり下方比較して自信を回復するきっかけにしますし、こっそりやる分には、問題はありません。
(また、お笑い芸人がダメな人の演技をしたりするのは、観る人に下方比較する材料を提供することで観る人を元気にするという側面があります。このように現実の誰かに対して下方比較するのではなく、演技等で表現された架空のキャラクターなどに対して下方比較するのも有効ですし、問題ありません。)
問題は、下方比較を他の人と共有したときに起こりやすいです。
徹底的に自信を失った人は、下方比較を他の人と共有することで、自分の下方比較を正当化し、その効果を高めようとします。
『あの人、服装ダサいよね』『あの子、空気読めないよね』『あいつ、あんなことして、頭悪いんじゃね?』…等々、粗探しした内容を共有し、仲間と一緒に誰かを見下すことで、自分は正しいと、より強く思い込もうとするのです。
共有する相手は、自分と同じように自信を失った人達です。
やがてそういった下方比較を共有する集団が活発に活動し注目を集めると、その集団の持つ影響力は強くなります。
そうなると、その影響力を使って、下方比較された人達にも、その判断基準を押し付けてそれが正しいと思い込ませます。そうすることで、自分は正しいとさらに強く思い込めるからです。
かくして、『自分たちは上位の存在である』と信じる集団と『自分たちは下位の存在である』と思い込まされた集団が出来上がります。
そして、『自分たちは下位である』と思い込まされた集団のメンバーは、それによって、対人関係に積極性がなくなったり、『頑張っても無駄だ、きっとできない』と思い込んで成績が下がったりします。ストレスで体調を崩すこともあります。
つまり『自分たちは下位の者である』と思い込まされることによって、実際に、その場の評価基準による下位の者のふるまいと能力を示すようになるのです。
従って、スクールカーストの上位者は、実は自信がない人達の集まりであり、下位者は『自分たちは下位の存在である』と思い込まされて本来の力を発揮できなくされた被害者です。
(その一方で、本当に自分に自信がある人は、誰かを見下すことや、自分を承認してくれる仲間の必要を感じませんので、そういった集団とは関わらず、自分の目標を達成するための努力しています。
そういう人に対しては、スクールカーストの上位集団は、①『変人』というレッテルを貼って無理やり見下すか、②自分の集団と関係があることにして自分の集団の権威付けに利用する、あるいは、③『神』『聖人』等のカースト外であることを示すあだ名をつけて、敬して遠ざけるといった処置をとります。)
ところで、スクールカーストと音楽には深い関係があります。
よく中学生や高校生くらいの集団は、自分が所属しているグループとの連帯を示すために、集まっているときなどに、大きな音で音楽を流したりして『同じような音楽が好き』という特徴をアピールしてますよね。
時には、自分が本当に好きな音楽を隠して、自分が属する集団が好むジャンルの音楽を好きと嘘をついたりもします。
かくして、スクールカーストの上位集団と下位集団は、公の場では違う音楽を聴くことになります。
下位集団のメンバーが上位集団と同じ音楽を聴くと『生意気だ!!』『この音楽の本当の良さを分かっていないのに聴くな!!』等と攻撃されます。
しかしながら、音楽には、そういった人と人との分断を超える力もあります。
例えば、上記のように、グループから排除されないために、公の場では自分の属するグループが好む音楽が好きなふりをしていても、プライベートな場では、本当に自分の好む音楽を聴いているという人は結構います。そんな人が、あるとき、別のカーストのグループのメンバーが、自分と同様に、所属するグループが好きな音楽以外の音楽をプライベートでは好んで聴いていて、その私的な音楽の好みが自分と同じであると偶然知ったというとき、カーストを超えた秘密の交流が始まったりします。
集団の圧力による分断を、個々の人間性、あるいは「本当の気持ち」が乗り越えたということになります(ロミオとジュリエットで表現されているのと同じテーマがここに観られます)。
また、本当に心のこもった演奏、長い間一生懸命練習してたどりついた音は、人と人の分断を超えて、心に届きます。
これは理想主義者の夢に過ぎないと思われるかもしれません。
しかし、上位集団とされる人たちが心の中に隠している自信のなさやその辛さ、下位集団の役割を押し付けられた人たちの悲しみや怒りは、美しいものや真心によって慰められるのを求めています。
そこに音楽が届いたとき奇跡が起こりうるのではないでしょうか?
言い換えると、本当に素晴らしい音楽が、差別や分断を超えて人々を感動させたとき、その感動を共有した体験が、差別や分断をなくすきっかけになりうるのではないでしょうか?
そして、ここでは分かりやすい例としてスクールカーストを使って差別や分断が発生する様子を説明しましたが、上記のことは、スクールカースト以外の差別や分断にも当てはまる心理です。
音楽をすると、差別や分断をなくせるかもしれません。