「音楽は人間の存在を全肯定する思想かも」

『人間のどうしようもない愚かさや目を背けたくなる残酷さも、音楽で表現すると美しく感じ、感動するのはなぜか?』について、音楽心理学には『そういった音楽を聴いて危機的状況と勘違いした脳が、それに対応するための準備を心身にさせるために麻薬のような物質(脳内麻薬)を出すからではないか』という説があります。


しかしながら、そういった脳内麻薬によって、音楽による感動の全てを説明するのは無理があります。


脳内麻薬と同じ物質を人工的に作って摂取しても、音楽による感動は再現できないからです。


では、冒頭の問いに対する答えは何になるのか?


私は『そういったどうしようもない愚かさや目をそむけたくなる残酷さを含めて、人間の存在を無条件に全肯定する思想』を音楽から感じるからではないか?と思います。


聖書に『神様は善人の上にも悪人の上にも雨を降らせてくださいます』と書いてありますが、これは善人であろうと悪人であろうと無条件にその存在を肯定し愛することが大事であるという意味かと思われます。

(もっともだからといって悪い行いをしつづけていいわけではなく、神様にその存在を無条件に愛されているのだから、悔い改めて悪い行いをやめ、善い行いをしてほしいと神様は願っておられる…というようなことが聖書には書いてあります。

このような『存在』と『行い』を切り離す考えは『罪を憎んで人を憎まず』ですね。これはもともと孔子の言葉だったかもしれないそうですので、聖書と孔子はこの点で一致してたかもしれません。

親鸞の『悪人正機説』を、悪い行いは人間関係や状況といった縁(えにし)によって行ってしまうものだとし、行いと存在を切り離して、存在(魂)を救済する思想とすると、この説とも一致しますね。

そして聖書が書かれてから二千年以上もの間、その思想は人々を感動させ続けています(聖書が読み継がれているのがその証拠です)。


勧善懲悪よりも、人間存在の全肯定の方に人は感動するのです。


音楽は人間の存在を全肯定する思想かもしれません。

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