見出し画像

日比谷公園と佐賀と首都東京 Part 2

名君: 鍋島直正 (閑叟/かんそう) の登場

今回の主人公: 鍋島閑叟の登場です。閑叟はフェートン号事件より約20年後の天保元年(1830)、佐賀藩主となります。

閑叟が佐賀藩主となったのは江戸:佐賀藩邸ですが、藩主として、初めて自らの領土:佐賀に帰る際、その大名行列に江戸の商人達が借金返済の督促に来ました。前藩主である閑叟の父時代の浪費や、長崎防衛のための出費が重なり、藩の財政はほぼ破綻状態でした。

画像2

(佐賀藩10代藩主 鍋島直正(閑叟))

僕が、閑叟を尊敬する点は、もちろんこれらの借金を返して藩の財政を立て直した点もありますが、さらには、長崎防衛の務める過程で、異国の脅威や技術力の差の現実を冷静に受け止め、日本でいち早く西洋文明の吸収に動いた点です。

当時の日本では、尊王攘夷運動が吹き荒れていて、特に攘夷=外国を徹底的に排除する考えが主流を占める中、当時の国際情勢(アヘン・アロー号戦争での清の敗北)や、外国の蒸気船や大砲の威力=圧倒的な現実に直視し、徹底的に研究します。

壮絶な努力の結果、日本で初めに反射炉(高温で鉄を精錬する施設。この施設がなければ、西洋式の大砲は作れなかった)を建設することに成功。

この反射炉から、精度の高い鉄を作ることができ、アームストロング砲や、日本初の軍艦=凌風丸の製造に成功します。また、江戸の海防を急ぐ幕府から、江戸湾に築かれた台場に設置する大砲の製造を依頼されるなど、幕末の日本において、もっとも科学技術力の持つ藩になりました。

画像1

( 24ポンドカノン砲。幕府のから発注を受け50門製造。品川台場に設置された)

この、佐賀藩の技術が、東京、強いて言えば、日本を守ることとなります。

(パート3に続く)


いいなと思ったら応援しよう!