イワナとビールのような物々交換をしたい。
物々交換をもっともっとしたい。
お金を支払ったり、いただくことの気持ち良さもあるんだけど、
イワナがビールと交換されるみたいな世界もまた気持ち良くておもしろい。
ぼくの周りの世界では自然があふれていて、
都会に住む人たちの世界には、自然とはまた違った豊かな世界がある。
イワナとビールの物々交換はまさに、別の世界と繋がったかのようなたのしさがあった。
もともと、その別世界への切符というのはお金のはずだ。
お金はあらゆるものに価値をつけてくれているので、別世界の住人同士が、いちいち物の価値を見極める必要もなく、あらゆる世界を横断する切符として使うことができる。むちゃくちゃ便利な代物。
でもその価値はどうやら「物の希少性」によって誰かが見極めているらしい。
サンマがよく獲れていたいた時代よりも、不漁の今のほうが値段が高くなっている。これはサンマがめちゃくちゃおいしくなったからでも、さんま愛好家が増えたからでもなく、ただサンマの量が減ったから「サンマの希少性」上がり、値段も上がったということなのらしい。
ぼくは、この価値の付け方にちょっと納得がいかない。
いや、納得がいかないというよりも、驚いたのだ。サンマはともかくとして、野菜を育てている農家さんは、作れば作るほど、希少性が下がって値段が安くなっちゃうじゃないか。なんで頑張ったら頑張った分だけ、価値が減るんだ?それの意味が分からないし、あえて作らないほうが値段が上がって得をするというこの構造自体、意味が分からないのだ。
・・・と、小論文的論法だとここから「その点物々交換は」と論を展開しそうな流れになっているのだけれど、僕は別に全てが物々交換にしたいわけじゃない。
自分が大事に育てたり、自分が頑張っていっぱい収穫したものが、どんどん安くなるというのが、僕はいやだ。僕はあんまりなにかを育てたりしてはないけど、山に入ったり、川に入ったりで自然のものを採ったりする。たくさん採れれば採れるほど価値が安くなる、という構造のなかでなにかをするのが嫌だ。
ということで、自分が採ったりするものは全部物々交換にしたらいいじゃん、と思い至ったのであった。もちろんお金に換えるのだっていい。とにかく僕はイワナとビールみたいな交換をいろんなところでやってみたいなと思ってる。