言語理論とはそもそも何なのか?

この記事はまつーらとしおさん主催の「アドベントカレンダー言語学な人々2024年版 別館」の12月22日分として書きました。

ぼくは2021年にアドベントカレンダーに参加して以下の記事を書いています。

「普遍文法について,一般の人が誤解しがちなこと,YouTubeにからめて」https://www.konan-u.ac.jp/hp/els/psychling/advent2021.html

上記記事にスピンオフとして、与格交替と生成文法について以下の記事も書いていて、自分で読み返して、めちゃ内容濃いやんと驚いています(笑)。「Oehrle (1976)の最終章にこれこれこう書かれている」なんて、自分で読んだことすらもう忘れています。人間の記憶って頼りないですね……だから文字って素晴らしいのか。外在する自己。

「大人気ないけどもう一つだけどうしても気になること」
https://www.konan-u.ac.jp/hp/els/psychling/advent2021b.html

前置きはこのへんにしておいて。(ちなみにnoteというものを使うのは初めてなのですが、近年使っている人が多くて、インタフェースが洗練されているので、ぼくも使ってみることにしました。)

前振り:テオク・テシマウの非対称性

3年ぶりのアドベントカレンダーのネタですが、これについてちょっと書いてみようと思ったきっかけがありまして、それは日本言語学会で「テオクとテシマウの非対称性」についてポスター発表したときのことです。

この発表自体は小ネタで、どういう内容かというと、たとえば「宿題をやっておく」と「宿題をやってしまう」の違いを考えると、前者は準備の意味、後者は完了のような意味(*)で捉えられるわけですが、それらの意味は本動詞のオク、シマウの意味から派生していると考えられます。つまり、オクは「平面に設置する」という意味で、シマウは「長期保存を前提に閉所に設置する」という意味なので、アクセス性に関して対照的であるわけです。平面におけば、誰でもアクセスできるし、長期保存閉所に入れるとアクセスしにくくなるわけなので、「宿題をやっておく」=「宿題をやってアクセスできるようにする=準備」に対して、「宿題をやってしまう」=「宿題をやってアクセスできないようになる=自分の手からは完全に離れた」というニュアンスになるというわけです。

(*ただしテオクは実際は「完了」ではない⇒これについては2024年の拙論文「テシマウは本当に完了のアスペクト形式なのか」『レキシコン研究の新視点』所収を参照 https://researchmap.jp/kentaron/published_papers/48437685/attachment_file.pdf

で、それ自体は先行研究でも言われていることなんですが([1][2][3][4][5][6])、問題は、もし「オク」「シマウ」場所だけが違うのであれば、その着点解釈以外については対称的なふるまいになっても良いのにも関わらず、以下のような非対称性が見られることです。

【1】テオクは明示的な着点を項として認可できる場合があるが、テシマウはできない
  宿題を(机の上に)やっておいた。
  宿題を(*カバンの中に)やってしまった。
【2】テオクには意図性が要求されるが、テシマウにはそのような制約はない
  書類を(*不注意で)捨てておいた。
  書類を(不注意で)捨ててしまった。
【3】関連して、非対格動詞はテオクと相性が悪い
  旗を倒しておいた。 / *旗が倒れておいた。
  旗を倒してしまった。 / 旗が倒れてしまった。

結局のところ、テオクには意思性が必要だけれどもテシマウはそうでもない。この非対称性は、着点の違いからすぐには説明できない。ではなぜこの違いがあるのか?

……おっとここで日付が変わって23日になってしまった。22日にアップロードする約束が守れなくてすみません。もう寝たいし、書き終えるぞー

この問題に説明を与えようとする試みがぼくのポスター発表の主眼だったわけですが、なるべく簡単に説明すると……まず、テオク、テシマウの意味が本動詞オク、シマウから来ているとすると、オクにもシマウにも意思性があるので、説明すべきはテオクになぜ意思性が必要なのかではなく、なぜテシマウに意思性の欠如が許されるのかということになる。これがまず第一点。

次に、テオク、テシマウという言語表現の使用には聞き手にコンテキストの前提の想定と受け入れを強要する(これをpresupposition accommodation という[7][8])。「鍵をあけておいた」なら「ああ、誰か入室必要だけど鍵をもっていない人がいるんだろうな」とか、「花瓶を割ってしまった」なら、「花瓶はきっと大切な、もしかしたら高価なものだったのだろうな」とか。「花瓶を割った」にはこういう前提の想定はない。これが第二点。

最後に、オク、シマウの着点の意味から、テオクは「事態の帰結について、話者も含めて誰でもアクセス容易になるようにする」という解釈、テシマウは「事態の帰結について、話者も含めて誰もアクセスできなくなる」という解釈が選好される。これが第三点。

でも、よく考えると、

(1)「xが行動した」
(2)「x自身がその帰結を手の届かないところにおいた」
(3)「xはその帰結に対し手出しできなくなった」

という流れでは、どういう背景があるのか、なぜ(3)の結果になるようにxが(2)を引き起こしたのか、想定しにくい。どんぐりを地面に埋めて場所を忘れて掘り出すことができなくなるリスじゃあるまいし。聞き手は背景となる前提の想定と受容を求められているのに、それが難しい。

しかし、(2)にxが関与してないとなると一気に前提の想定と受容が容易になる。

(1)「xが行動した」
(2)「その帰結が手の届かないところへ行った」
(3)「xはその帰結に対し手出しできなくなった」

(3)がxに不利な状況を生みやすいので、(2)にxが絡んでいないという解釈のほうが、聞き手にとって解釈が容易だということである。こういう誤用論の妖精……じゃなくて語用論の要請によって、テシマウにおける意図性が駆動される……んじゃないかな、というのが発表の主旨でした。

時間の概念のない派生は有り得るのか

で、ここまでが長い前振りで、本題はここから。このポスター発表について、某国研のKさんから、「意図性の削除が駆動されるというのは、共時的な説明として果たして成り立つのか、通時的な文法化の説明というのなら分かるけれども」というようなコメントをいただいたんですね(正確な文言は覚えていませんが……ニュアンス違ってたらすみません)。

その質問、考えてみたら以前……10年以上まえかな? D大学のK先生にもされたな、と思い出しました。ぼくは意味論でも動的な派生をもとにした説明が好きなので、よくそういった主張をするのですが、すると、「いやそれは文法化(通時変化現象)じゃないのか」「それは共時的な意味計算なのか」と言われるんですよね。

でもね、よく考えてみてください。文法化はともかく、共時的な計算なのですか?という質問は、どういうわけか生成文法を中心とする統語派生にはほとんど投げかけられない。

ぼくのテ形補助動詞の意味論の主張が本動詞から補助動詞への派生を仮定するのでどうしても「文法化じゃね?」「共時計算じゃないだろ!」と言われるんですが、生成文法の統語的派生はあきらかに文法化とは異なるので「文法化じゃね?」とは言われないのはわかる。でも「共時計算なんですか?」と(あまり)言われないのは本当に不思議です。

いや、もちろん言っている人はいるんですけど、実際ぼくもハーバードの院生時代にチョムスキーの春学期の授業(言語哲学の授業)受けていたとき、TAがダニー・フォックスだったんですが、ダニーに、「統語派生と実際の言語使用の関係ってどうなっているんですか? 言語を実際に産出したり理解したりするときに頭の中で生成文法でいう統語派生を行なっているとは思えないんですが、じゃ統語派生って何なんですか」と質問したことがあります。ちなみにダニー・フォックスは「それは分からん」と答えただけだったと記憶しています。

結局問題は、「派生」という動的な説明を持ち出している以上、時間的な解釈がつきまとうわけです。VPからvPをつくってTPを構築するなら、VPができるのがvPより先で、vPができるのがTPができるより先なわけですが、「先」というのは「時間的に前」という意味であるように考えてしまう。

もちろん、生成文法家は「統語派生は文産出ではない、派生に時間の流れはない」と言うわけですが、時間的な先行関係がない派生っていったい何なんだろう?

もし「時間を超越した共時的な派生的統語計算」というのが許されるならば、ぼくの「本動詞のシマウの意味論をもとにしたテシマウの派生的意味計算」というのも共時的に許されるはず。統語派生は「共時的な計算なんですか?」と言われないのに、意味派生だけに「共時的な計算なんですか?」と言われるのはアンフェアだと思います(笑)。

というのは半分冗談で半分本気なんですが、ぼくも開き直っているわけじゃなくて、やはり考えなければならない問題だと思うし、そして派生を前提とする統語理論についても看過できない問題だと考えています。

リアルタイムの言語理解に寄与しない言語理論があるとすればそれは何の理論なのか

心理言語学をやっていると(ぼくは心理言語学もやっているんです……そっちのほうが意味論より専門か?)、ヒトがどういう機序のもと文を理解したり産出したりするのかという問題に日々向き合っているわけですが、心理言語学研究者の矜持(?)として、自分らが向き合っている主要問題、すなわち「ヒトはリアルタイムにおいてどのようにことばを理解するか」という問題はリアルな問題だという意識があります。だって、ヒトはリアルタイムでことばを理解するんだもん、実際に!

いわゆる理論言語学については最大限の敬意を払いつつも、特定の局面において理論言語学と心理言語学の理論が対立することがあるとしたら、当然後者が優先されるべきだとさえ思います。なぜなら、後者は「ヒトがいかにしてリアルタイムでことばを理解するか」という、言語研究の究極のフロンティアを解決しようとしているからです。「ヒトがいかにしてリアルタイムでことばを理解するか」という問題の説明に寄与しない言語理論が仮にあるとしたら、それはいったい何のための言語理論なのか?

だから、言語理論、特に派生を前提とする言語理論は、「ヒトがいかにしてリアルタイムでことばを理解するか」という問題に寄与できるのかという問いにきちんと向き合うべきだと思っています。「統語派生は言語産出ではない」だけで終わりにすべきじゃない。「言語産出にも言語理解にも関与しない言語理論」……そんな言語理論があるとしたら(仮にあるとしたらですよ!)、何のためにそれが存在するのかまったく意味不明です。

生成文法の統語派生がリアルタイムの文理解や文産出の際に文字通りの形で発動していないのは明らかです。生成文法に限らず、意味論でも語用論でも、言語理論の多くはボトムアップの理論ですが、実際の文理解はボトムアップでは起きません。日本語なんて「ボトム」にあたる動詞が文末に出てくるんですから、リアルタイム文理解がボトムから出発することなんてありえません。意味論、語用論についても同じ問題があります。

しかし、ぼくは「統語派生なんて虚言だ」と言いたいわけじゃありません。基本的な統語派生(たとえばwh移動)はリアルだと思っています。リアルだけれども、リアルタイムでは発動しない。ではいったい言語理論とは何を説明するものなのか?

Rational animalとしてのヒト、そして言語獲得装置としての言語理論

ここからは妄言になりますが、ぼくは言語理論というのは、われわれヒトというrational animalが、言語知識を蓄積する際に利用する装置だと考えています。いわばLanguage Acquisition Device (LAD)そのものだということです。もっといえば、われわれが幼少期から母語を学ぶ際に使用する、言語獲得・言語学習のための道具だということです。母語話者のこどもが言語入力でWhat do you want?とかWho do you like?とか聞くと、「ははーん、なるほど、wh要素が目的語位置からCP Specに上がっているんだな」というように「派生的に理解される」、そのための道具立てが統語理論だということです。ヒトはrational animalなので、学習の際は言語入力を単にコピーするのではなく、「なぜこうなっているのだろう」とどうしても考えてしまう。「理論」の正体はそれで、これは別に新しい考えではなく誰かが言っていたと思うんですが(覚えてない)、言語理論とは研究者の理論と考えるより、獲得の際に利用される、いわば獲得過程にある子どもの理論だと考えたほうが良いということです。

つまり、言語理論=grammarはLADによって得られる結果ではなく、grammarそのものが動的なLADだということです。だからgrammarはリアルタイムの言語活動で都度発動されるものではない。grammarはあくまで言語運用の確立処理に利用される言語知識の整理を担っているのだ、と。

ですから、最初に書いたぼくのポスター発表へのKさんの質問に対しても、そのように答えました。すなわち、テシマウやテオクの意味的な派生やら、テシマウにおける設置現象におけるxのAgentivityの削除が駆動される、といった派生も、別にリアルタイムでいちいち計算されるわけではない。ただ、言語獲得の過程で、テシマウの用法を知識として整理するときに、そのような意味計算が発動する、もっというと、シマウの意味論とテシマウが「派生的に理解される」のだということです。

で、実際のリアルタイムの文理解でそういった派生に基づく知識がどのように理解されるかというと、それは先ほど言ったように確率計算の一部を成す形で影響するということだと思います。リアルタイムの言語処理においては実にさまざまな要因、すなわち統語規則、音韻理解、意味理解、文脈理解、世界知識、発話者と聞き手の社会的関係の理解など、それは多くの要因が次にくる言語入力の予測と理解に関わっています。どのようにこれらの要因が影響するかというのは、それはもうHale (2001)[9]やLevy (2008)[10]のサプライザル理論からニューラルネットワークやLLMなどで言われるように、確率的な重みづけで計算されると考えられる。

言語理論というのは、こういった確率モデルに寄与する言語知識の整理整頓に強い影響力をもつ、一種の獲得装置と考えるのが妥当なのではないか。

と、思っているわけです。思っているだけなので、理論的・経験的根拠は、まだまだこれからです。お粗末さまでした。

参照文献

[1] 寺村秀夫 (1984)『日本語のシンタクスと意味II』, くろしお出版, 東京.
[2] Ono, Tsuyoshi (1991) “The grammaticization of the Japanese verbs oku and shimau,” Cognitive Linguistics 3, 367–390.
[3] 梁井久江 (2009)「テシマウ相当形式の意味機能拡張」『日本語の研究』5, 15–29.
[4] Nakatani, Kentaro (2013) Predicate Concatenation: A Study of the V-te V Predicate in Japanese, Kurosio Publishers, Tokyo.
[5] 中谷健太郎 (2024)「テシマウは本当に完了のアスペクト形式なのか」岸本秀樹・日高俊夫・工藤和也(編)『レキシコン研究の新視点』開拓社, 東京.
[6] 中谷健太郎 (to appear)「語用論的な意味はどこまで語彙項目の意味か 〜補助動詞テオクから考える〜」于一楽・江口清子・小薬哲哉・眞野美穂(編)『由本陽子先生退職記念論文集 レキシコン研究の広がりと深まり』
[7] Beaver, David Ian (1997) “Presupposition,” Handbook of Logic and Language, ed. by Johan van Benthem and Alice ter Meulen, 939-1008, MIT Press, Cambridge, MA.
[8] Potts, Christopher (2005) Logic of Conventional Implicatures, Oxford University Press, Oxford.
[9] Hale, J. (2001). A probabilistic Earley parser as a psycholinguistic model. In Pro- ceedings of NAACL, volume 2, pages 159–166.
[10] Levy, R. (2008). Expectation-based syntactic comprehension. Cognition, 106(3), 1126-1177.


いいなと思ったら応援しよう!