脱サラして映画に関わるということ

 ようやくnoteのアカウントを作った。
 最初の投稿では、私が脱サラして映画に関わるようになった経緯を書いておこうと思う。以前、「ことばの映画館 第1館」で執筆した「父と私の間にあるもの」の一部を引用して、新たにまとめてみた。

 私は、父の影響で映画を観ることが好きになった。父との映画の話と言えば、洋画についてだった。幼少期、『スター・ウォーズ』、『E.T.』、ジャッキー・チェン作品などを一緒に観て、十代後半の頃には、チャップリン、ヒッチコック、フェリーニをはじめ、名匠の作品群を薦められた。その影響で、その後の私の映画鑑賞遍歴が豊かなものになっていったのは間違いない。
 高校を卒業してからの進路について、好きな「映画の道」に進むか、どちらかと言うと得意な「理系の道」に進むか、少しだけ悩んだことがあった。1990年頃のことだ。「映画の道」とは映画を作ること、監督になることを考えていた。ただ、その頃の日本映画には全く興味がなかったこともあり、その道に進んだとしても面白くないと浅はかにも考えてしまったのだ。こんな日本で映画監督なんて…かと言って海外でなんてハードルが高すぎる。こうして、あっさりと「理系の道」に進んだ。楽な道を選んだわけである。とにかく日本映画に魅力を感じておらず、ほとんど日本映画を観ていなかったのだ。
 ところが、IT企業のサラリーマンになり、東京で暮らすようになり、結婚し、子どもが生まれた2001年頃からか、古い日本映画に興味を持っていった。黒澤、成瀬、小津、寅さん、若尾文子…。更に21世紀の日本映画も観るようになり、大いに感銘を受ける作品にも出会っていった。そんな作品の監督は誰なのかと調べてみると、軒並み同年代ばかりだった。『運命じゃない人』(2005)の内田けんじ監督や『かもめ食堂』(2006)の荻上直子監督は同い年。『ゆれる』(2006)の西川美和監督は少し歳下。『リアリズムの宿』(2003)、『リンダ リンダ リンダ』(2005)の山下敦弘監督はさらにもう少し歳下。これはどうしたことか。同年代の映画監督は、進路を考えていたのは同じような時期のはずである。その頃の日本映画はどうだったか。私は魅力を感じていなかった。ならばこの同年代の監督達も魅力を感じていなかったはずではないのか。しかし彼らは監督となり、こんなにも素晴らしい仕事をしている。やられた!と思った。魅力を感じていなかった。それならば、自分で魅力あるものを作ればいいのだと考えて監督になったのかもしれないと。そう考えたら無性に悔しくなった。そして、今からでも映画を作れないか、いや、何か映画に関わることができないかと考えるようになっていった。
 今では日本映画をより多く観るようになっているわけだが、それは、ここからの流れなのだと思う。そして、あの頃の日本映画にも名作はあるのだと後から気づいていくのだった。
 何ができるか、何をしたいか、いろいろ思いめぐらし、気分も高まってはいくのだが、やはり、現実が覆いかぶさってくる。子どもが2人、家のローンを抱え、会社では中間管理職。こんな状況で映画に関わる、さらには会社を辞めて映画の仕事をするなど、非現実的にもほどがある。高まった気持ちは、現実という重石により脆くも崩れ落ちる。こんな感情の浮き沈みが、数年繰り返されていった。
 一方、時を同じくして、mixiにはまっていた。毎日のように観た映画のレビューを日記に投稿し、「マイミク」からの反応が楽しくて仕方なかった。古くレアな日本映画を紹介し、その作品を鑑賞した感想が返ってきたりすると、本当に嬉しかった。「紹介した映画を観てもらう」という行動は、自分にとてもしっくりくるものだと感じていた。
 そして、2011年3月11日。
 毎日のように、テレビやインターネットなどあらゆるメディアで、震災、原発関連のニュースが流れ続けた。余震、計画停電、風評被害。東京に住み、直接的な被災をしたわけではないが、今日の不安、明日の不安、将来への不安、あらゆる不安が押し寄せてくる。それでも、3月が終わり、4月、5月と時は当然ながら止まることなく突き進む。6月になると、不安から一歩先の感情へと変わってきていた。
 それは、やはり人生何が起こるかわからない。やりたいと思ったことはやるべきだ。そんな感情だった。そこで、数年来続いてきた思いが再燃した。もう一段階シフトチェンジして、さらに本気で、これから映画に関わることができないかと。考えに考えた。映画業界の仕組みのような書籍も購入した。しかし、それでもやはり現実が押し寄せてきて、今まで以上に本気で考えていただけに、このときばかりはどん底に突き落とされた思いだった。
 そんなとき、妻が一枚の新聞の切り抜きを渡してきた。それは、映画美学校とコミュニティシネマセンターが主催する「映像メディア・キュレーター養成講座」の受講生募集の記事だった。通称「上映者講座」。7月から翌年3月まで続く、映画上映の活動をしていきたいと考えている社会人向けの講座だった。「そんなに落ち込んでないで、これを受けてから考えてみたら?」そのときの妻のことばは今でも忘れない。数年間、私のこの浮き沈みを、落ち着いて端から見てきていた妻にしかできないことだった。
 まさしく、mixiの流れから、人に映画を紹介することに喜びを感じていたわけだが、映画を上映するということは、究極の映画紹介のようなものであり、その時期、最も興味を持っていた「映画に関わること」であった。
 妻の後押しというか、妻から与えられた希望の光みたいなものによって、講座を受講することにした。7月から通い始め、受講生同士の横のつながりもでき、毎週のように全国から映画上映に関わる第一線の方々が講師としてやってきては、その話に感銘を受け、9月にはもう決意が固まっていた。今年度いっぱいで会社を辞めようと。
 こうして、ある意味順当に、2012年3月31日、サラリーマン生活17年の幕を閉じた。
 そこから、すぐに映画の仕事があるわけではなかったが、今から思えば、とにかく映画を観て、あらゆる映画関連の場所に顔を出し、映画という巨大なものに体を馴染ませる時間が必要だったのだろう。そして、17年という歳月、仕事として映画に関わらずに過ごしてきて、いざ脱サラしたら、当初同年代の監督の活躍に抱いていた悔しさはどこかへ消えて無くなっていた。遠回りしてしまったとも全く考えないようになっていた。
 人生はこうなるべくしてなったのだと、確信した。

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