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現代アート論(6)終章―いよいよ、ポストコロナを語ろう

東日本大震災もそうだったが、新型コロナウイルス感染のパンデミックという出来事はリアルなのに幻想(肉眼に見えないからではない)に思え、逆に幻想の歴史(歴史が幻想だとしたら)がリアルに見える。

2010年代の折衷主義は、16世紀後半のポストルネサンスのようにマニエリスムなのだろうか? マニエリスムはルネサンスとバロックのハイブリッドだった。マニエリスムをそのように現在から総括することは簡単だが、物語の歪曲があるのではないか。とすれば、現代もモダンとポストモダンのパスティッシュと見てはいけないのかもしれない。
なんであれ歴史が始まるとすれば、盲目の歴史的運動として捉えることだ。ヘーゲルの言うような歴史の狡知はない。なにしろ出来事的歴史論では、出来事だけが唯一の原動力であり、その起源の一撃で歴史が幻想として開始され繰り広げられるのだ。しかも、非時間の出来事は、幻想の物語の目に見える著者になるわけではない。その舵取りを任されているのは、我々(人間とは限らない)である。
これまでの流れで掴めたように、ビフォーコロナまでの直近のアートのメインストリームは、件の折衷主義だった。が、新型コロナの出来事によって、このメインストリームは歴史の舞台から退場を迫られるだろう。とって代わって、メインストリームを占めてきた中心ではなく、自らの必然性を確信する周縁の活動が優勢になってくる。それは、2010年代の折衷主義ではなく、その一方の要素だったシミュラークルを純化する運動である。
とはいえ、その目標が明確にあるわけではない。つまり、純化は理想主義ではない。とりあえず純粋と呼べる段階に四方八方に拡散する。解答は一つではない(その一例は(5)の見出しで紹介した)。無数にある。そうなれば打ち上げられた花火は放射状に広がって、大輪の花を咲かせるだろう。そして、それが儚く消え去ったあとに漆黒の暗闇が横たわっているだろう(未来については未来形で語るしかない)。
そこには、すでに新たな表現の萌芽が蠢いているはずである。それがポストコロナのアート--ポストルネサンスではバロック的なリアリズムだった--である。
それを予感させる作品を展示した二つのビエンナーレが、コロナ以前に開かれていた。2018年の台北ビエンナーレと2019年のイスタンブール・ビエンナーレである。
見出し(台北ビエンナーレ)と次の写真(イスタンブール・ビエンナーレ)は、そのなかの作品から。これらを見ると、アートが新型コロナウイルス禍を予感し予言していたのではないかと思われるほどだ。

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新型コロナウイルス発生直前の最先端の現代アート(とくに非マーケットのアート)が、どこに向かおうとしていたのかが、これを見るとはっきり分かる。ポストモダンの常套手段であるフェティッシュやスペクタクルを捨て去り、シミュラークルを純化する方向に進んでいる。シミュラークルの指示対象とマティエールが消え去る方向である。だが、それでは収まらない。さらに現実が永劫回帰する方へと旋回するのだ。その現実の有力なテーマは、人新世時代のエコロジーである。
まとめておこう。私は、この短いシリーズの冒頭で、現代アートに歴史はあるのかと問うた。それが「出来事」なら、歴史はない。にもかかわらず新型コロナウイルスの発生を結節点にして、それ以前、以後を語ってきた。実は、始まりも終わりもない「出来事」は、新型コロナウイルスだったのである(アート自体に「出来事」があることは否定しないが、それはまた別の話)。それを中心に歴史が生起する。そして、我々がそれを紡ぐナレーターにして主人公である、幻想としてのアートの歴史(物語)である。
 

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